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2008年3月30日 (日)

響き合い木霊する問い

 2006年、秋の彼岸に父の墓に詣でたときアカショウビンは親鸞の言葉を想起し一文を書いた。

 親鸞は、父母の孝養のために一返たりとも念仏を唱えたことはない。その理由は、人は一切の有情とつながっているのだから父母のためにのみ念仏するのは仏法の考えに背く。親鸞は一切の有情の為に念仏するというのである。

 NHKテレビで太田 光氏と高 史明氏が親鸞を語っていた。 高氏も、その親鸞の「歎異の強い言葉の力に触発されたと話す。12 歳で自殺されたご子息の死に対する後悔と不憫から高さんは試行錯誤の末に親鸞に出会う。

 子供の自殺は親にとって耐えられない苦しみであろう。少年や少女の死は、なぜ起きるのか?番組は自殺未遂の16歳の少女が他人のためにご飯の炊き出しをすることで感謝され喜びを見い出す。その姿に高さんは子息に対する無念を幾らかでも晴らす思いを持たれたのだろう。

 先日、関西に住むアカショウビンの母が入院し昨日と本日、見舞ってきた。病は過酷である。かつて母は「死ぬのは怖くないよ」と、ぽそりと呟いたことがあった。その言葉に愕然とした。子達と離れて一人住む母に親不孝の限りを尽くしていることを改めて悔いた。昨年亡くなった叔父の葬儀に母は上京し弟と別れを告げた。その母が一年も経たぬうちに病に倒れた。医師の見立ては大腸ガン。部位が難しいところで手術は慎重を要すると言う。来週か早ければ今週にも手術が必要です、と外科医は説明した。昨日、内科医の説明を受けた後、母の棲むアパートの部屋に一泊した。室内は小奇麗に整理されていた。今朝、家を出て病院を再訪し電車を乗り継ぎ新幹線で戻ってきた。

 素面では耐えられず、アルコールを飲み不安と鬱をかわそうとし、うたた寝をして目覚めたらその番組が放映されていた。中学生達に高氏は死とは何か?生とは何か?と、ゆったりと問いかけ、回答を発していく。その語りは親鸞に触発されたご自身の生を通し息子を亡くして33年後の生の現在を映す。それはまたアカショウビンの現在への問いかけとなって反響した。

 それは、人という生き物が発する言葉とは何か?という問いにもなり、太田氏と高氏の対話・問答は、そのように形を変えてアカショウビンに木霊する。

 人の言葉と語りは他者との間で時に痛烈に哀切に交わされる。それはアカショウビンをも生とは何か?この世とは何か?という問いに導く。

 そのような疑念に、携帯した本の次のような文章が響きあう。

 人間の偉大な本質は、それが有の本質に帰属しており、有の本質をその真理のうちへと守るのに必要とされている、という点に存する。それゆえ、第一に必要なことは、こうである。まずは有の本質を、思索に値する事柄としてそもそもはじめて熟考すること。まずはそのような事柄を思索しつつ経験すること。まずはそのような経験に分け入るための小道の跡をさぐり、その小道を切り拓いて人跡未踏の地へ踏み入ること。

 およそこうしたことをわれわれがなしうるのは、次のときにのみである。つまり、見たところつねに最も近くにあり唯一差し迫っているように見える、われわれは何をなすべきか、という問いに優先して、われわれはどのように思索しなければならないか、という問いをわれわれがはじめてひたすら熟考するときにのみである。というのも、思索とは、本来的な行為だからである。行為という語が、元有の本質に手を貸して、そこに入っていけば元有がおのれとその本質を言葉にもたらすような場所を準備する、という意味であるとすれば、そうである。言葉なしには、熟慮しようとどんなに意欲しても、いかなる道も小道も欠けたままである。言葉なしには、あらゆる行ないに、それが立ち回り現実に影響を及ぼしうるはずの次元が、ことごとく欠如してしまう。この場合、言葉とは、まずもって思考やら感情やら意欲やらの表現であるのでは決してない。言葉とは、有に応答する原初的次元なのであり、その内部でこそ人間存在は、有の語りかけてくる要求に応答して語り、この応答的語りにおいて有に聞き従う、ということがそもそもはじめてできるのである。この原初的な応答的語りがことさらに遂行されると、それがつまり思索なのである。思索しつつわれわれは、有の運命の耐え抜き、つまり総かり立て体制の耐え抜きが出来事としておのずと本有化される領域の内に住むということを、初めて学ぶ。(「ブレーメン講演とフライブルク講演」 有るといえるものへの観入 創文社 ハイデガー全集第79巻 p89)

 「総かり立て体制」とは、戦後にハイデガーが哲学界に再登場した時にテレビや飛行機、原子爆弾や水素爆弾に象徴される時間を短縮する道具や、途方もない武器として人類に新たな不安をもたらした「技術」という概念に対し「存在と時間」以来継続する思索を開陳したものだ。そこには西洋の近代哲学史を「存在の忘却」と看取し思索した哲学者の独特の思索が展開されている。

 病床に横たわる母の姿を通してアカショウビンは、そのような文章に触発される。母の80年の人生とアカショウビンは相対し、この世での縁を不可思議に思うのだ。

 人とは何か?この世とは何か?親鸞やハイデガーの思索・考察は何をどのように切り拓いたのか?鼻から細い管を入れられ、弱々しく横たわる母の姿を見ていると、そのような問いが脳の奥で木霊のように響きもするのだ。それは病む母に、どう応えられるというのか?この世に棲む日々に母は確信とも言える回答を持っているようにも思えた。しかし息子は悶々と、その回答を探り求め、悶え苦しむのである。

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