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2008年3月 8日 (土)

3月の映画評

  先月から今月にかけて劇場やレンタルDVDで幾つか観た中で興味深かったのは「キムチを作る女」(2005年 張律〈チャン・リュル〉監督)だ。原題は「芒種」。監督名は韓国読みではチャン・ユルのようだが多くが左記の表記なのでこちらを採用する。芒種とは6月6日前後の種まきの時期を意味する季語であるらしい。英語名はGrain in ear。直訳すれば「穂の出た穀物」だろうか。

 物語は中国の東北地方で朝鮮人として不法にキムチを作り売ることで生活する母と長男の日常を淡々と描く。観客を楽しませようとする作品ではない。観る者に何かを突きつけようとでもするかのような映像だ。観客を楽しませる音楽もない。しかしこの作品は余計な説明をせず人間が孤独で或る時に絶望から思いもよらぬ行動に走ることを描く。それは悲劇としても観ることが出来るし我々がテレビで観たりする異常な事件の経過を描く作品とも言える。しかし人間という存在が理不尽な生き物であることにも改めて気付かされる作品である。

  ヨーロッパの各映画祭でも高く評価されたという。恐らくフランスで北野 武の作品が受け入れられたのと同じような評価があったのではないか。その理由を探れば一カット・一シーンの映像に横溢する緊張と弛緩とも言えるだろうか。北野作品では殺人や死に至る緊張が随所に用意されているが、それとは異なる緊張を強いる作品である。そこに共通するのは我々の日常に瀰漫する不気味さとでもいうものだろう。それがチャン作品では異国における異民族の生きる殺伐とした孤独を現わす映像の乾き方となって表現されている。主人公は最後に悲劇的な行為に走る。それは復讐だろうか?それとも心の内に広がる虚無が衝動的に殺意へと走らせたと監督は伝えたいのだろうか?それは、恐らく文化土壌の違いを超える人間に共通な心象風景と行為の偶然性とでも言えるのではなかろうか。

  この作品を観る者は退屈するだろうか?それとも虚無感に襲われるだろうか?あるいは絶望的な気持ちになるだろうか?そのどれでもあるように思われる。この作品はエンターテインメントではない、という評がある。エンターテインメントでない、ということは、どういう事か?ネットでの批評を読むと「商業主義を排した作品」という評も散見される。それは、つまり大衆受けを狙っていない作品という意味でもあるだろう。しかし、それを観て何やら挑発される私は大衆の一人であるが、それはどういうことなのだろうか?「受け」に私はハマッたということであろうか?それとも作品が批評の如く商業主義を排した作品ではないのではない、ということなのか?なにやらアレコレ考えさせられ作品であることは確かだ。

  作品に漂う孤独感と絶望感は我々の日常からは隠されている。我々は、そういった孤独と絶望から逃れるように日常を生きている。しかし映像として、それに対すると我々の日常が如何に危ういものか、という問いを突きつけられるのだ。
 舞台は吉林省の小さな街。この街の風景が、かつて訪れたことのある山東省の田舎の風景と人々の姿とも重なり興味深く見た。

  ロベルト・ロッセリーニ監督の「ドイツ零年」(1948年)は絶望的な内容である。父殺しと12歳の子供の自殺といった暗澹となる物語だ。しかしイタリアの監督が何故異国で、しかもイタリア語で撮ったのだろう?それは出演者たちがイタリア人俳優であるせいか?その奇妙さは避けられなかったのか?ロッセリーニは、かつての同盟国の悲惨な風景の中で生きる異国の人々の生き方を正確に新たなリアリズムで撮りたかった、ということかもしれない。戦争の傷跡も生々しいベルリンの風景も作品の中で活きている。ヒトラーが自殺した建物というのも撮影されて戦争の傷跡の生々しさを醸しだしている。それにしても監督は台詞も音楽も実に雄弁に悲劇を物語った。

「主人公は僕だった」(2006年 マーク・フォスター監督)は米国流のファンタジー。上記の作品に比べて、食べるのには困らないが、うだつのあがらない男を主人公に意表を突く発想で面白おかしく仕上げた佳作だ。そこにはチャン作品にあるような観る者への研ぎ澄まされた挑発や語りかけ方はない。それはエンターテインメントとして私達を楽しませてくれる作品だ。

 「女帝(エンペラー)」(2006年 フォン・シャオガン監督)は面白かった。原題は「夜宴 Banquet」。主演のチャン・ツイィーに役柄もあるだろうが風格と威厳が滲み出てきている。佳作の「初恋のきた道」(1999年 チャン・イーモウ監督)以来、女優として成長するうえで様々な作品に出演し毀誉褒貶の批評にも晒されてきただろう。しかし本作は力作として楽しめた。飛んだり跳ねたりのCGにはうんざりしたが物語は周到に練られている。脚本家出身のシャオガン監督の脚本が優れているせいだろう。

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