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2008年2月19日 (火)

東洋的あるいは日本的

 パソコンの「暴走」で2月に入り書き込みが出来なくなってしまった。そのため急遽「アカショウビン日記」というのを新たに開設して記事を継続してきた。とりあえず、そちらに書いた記事を転載する。「~日記」のほうには別のテーマで継続していくつもり。ご関心の話題にはご遠慮なくコメントを頂きたい。いずれにしてもまた「アカショウビン通信」を継続できるようになりニフティさんのご担当諸氏に感謝。今後ともよろしくお願いします。

 少し言葉にこだわりたい。「文士」という言葉は今や死語だろうがアカショウビンが若い頃には未だかろうじて命脈を保っていた。それは、その言葉を体現していると思われる人たちが存命だったからだ。今、そういう人が生存しているのかどうか不明。かつても今も「絵士」という言葉はなかったのではないか。維新後の明治の画家達が目指した西洋画に対抗する日本画の成果のひとつは横山大観という画家にある。大観には「絵士」という風貌と語録と作品が体現されている。

 今年は横山大観没後50年という。先日、六本木の美術館で開催されている「没後50年 横山大観―新たなる伝説へ」で大観を観てきた。アカショウビンは大観が好きなのである。初期作品の水墨画が見事。墨絵の妙とでも言う境地に深く分け入っている感あり。雪舟伝とされる「四季山水図」の模写を観れば大観の画家としての伎倆は相当な高みにあり、明治33年、大観32歳の頃から3年間に描かれた「飛泉」(1900年頃)、「曳船」(1901年)、「夕立」(1902年)は伎倆的にも神韻の境地を感得する高みを描出している。それは「帰牧図」(1904年)へと継続する。幾つかの作品を観ていると大観は題名によって作品から音を響かせようと策しているのではないか、と思わされる。に因む十題のうちの「海潮四題」は春、夏、冬が出品され、夏が面白い。そこには岩礁にあたる波頭が音をたてているようにも思える。水墨で描いた峨々たる岩礁と波が岩に当り飛沫となる瞬間を捉えた大観の眼差しが動きを表現して見事。その岩を描く水墨は雪舟の「慧可断図」の岩にも通じる。入場チケットにも印刷されて今回の催しの呼び物にもなっている「或る日の太平洋」は構図の妙を納得した。同作品に類する他作品と比べて、こちらが力強く生き生きとして素晴らしい。

 「生々流転」(1923年)はさすがに圧巻だった。特に巻末の龍が昇天し波が逆巻き風雲が渦巻く様子が大いなる自然を映し大観が「東洋的」境地を超え独自の境地に達したように思えた。ところで、その「東洋的」と西洋からは特定されるであろう画風である。大観の初期の水墨画や中期の作品には本居宣長のような国学者からは漢心(からごころ・中国的)と一蹴される画題が散見される。大観らが目指した西洋画に対抗する日本画には水墨画に見られるように雪舟の頃から多分に中国的な画題が画風の基礎になっているのは明らかだ。それは「東洋的境地」とでもいう風情で現れている。今回は出典されてなかったが「隠棲」(1902年)という作品もそうだ。三十代の頃に描いた「飛泉」「曳引」「夕立」は正にその大観という画家の人生の中での到達点であるといってもよいのではなかろうか。

  ここで興味を掻き立てるのは天心や大観らが目指した日本画と、宣長が拒否した漢心と、掬い取ろうとした國の魂と言う物の実体=姿の異同である。傑作「生々流転」には明らかに漢心が現れているが志は「日本画」であり横山大観という一人の「絵士」の理想と気概であろう。その東洋的とも概観される内容はそういった概念を超えて大観にとって達成感のあった作品とも思われる。一方で「迷児」には孔子・老子・釈迦・キリストが描かれる。大観が当時の思想界・宗教界の混乱した状況を伝えた作品とされている。これなどは宣長が見れば顔を背け一蹴した作品ではないかと思われる。そこにはまた、そのような画題を平然と作品化する大観という個性に「愚鈍」とも「超越」とも勘ぐられるような器量さえ感じるが。「東洋的」と西洋から評される概念には「愚鈍」と「超越」への間に介在する不可解さとでもいうような物が在りはしないか?中国的な「大人」という理想的人間の境地には西洋人から見れば、それは「愚鈍」ともあるいは「超越」とも熟慮されかねない内容が混在しているのではないか?その後者は宣長が忌避したものではないか、という仮説は立てられないか?それはまたの機会に考察してみよう。

 繰り返すが、幾つかの作品には幻聴のように響く自然の音がある。林の葉擦れの音であり、粛々と降る雨の音であり、岩礁を削らんとする荒波の音である。それは大観が達成し得た境地とでもいうようなものではないかと思う。

 会場は盛況だった。ゆっくり鑑賞するゆとりはなかったが大観の眼差しを少しは感じ取れたのが収穫だった。

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