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2008年2月29日 (金)

沖縄問題の関連資料

  昨年来の沖縄少女レイプ問題や慶良間諸島・伊江島での集団自決問題に関する曽野綾子氏と大江健三郎氏の著書を巡る攻防に注目していると関係者から喫緊の資料を入手したので無断でコピーさせていただく。ご関心の方はお目通し頂きたい。アカショウビンは別ブログで書評コミュにも参加している。今扱って入る本は3年前に出版され話題になった「靖国問題」(高橋哲哉著)。デリケートな問題だが若い人のコメントもありこの著書の周辺を論議している。過去も現在も「靖国神社」のヤマトと「沖縄」は周期的に大きな振幅で音叉のように共鳴する。最近は“もののあはれ”を通して小林秀雄、江藤 淳、保田與重郎らの論考に眼を通してきた。しかし昨今の政治状況を含めて日本という国の来歴を考えるときに「沖縄」という磁場は歴史の変わり目に常に独自のメッセージを本土に向けて発信してきた。奄美や沖縄にも永く住んだ島尾敏雄はかつて時代が大きく変わる時には南島がなにやらざわざわとざわめいてくる(取意)と語っていた筈だ。以下の資料を読み解きながら「沖縄」からヤマト(日本)を、また逆にヤマト(日本)から「沖縄」を再考、再々考していきたい。

   チャルマーズ・ジョンソンは、カリフォルニア州バークレーの『日本政策研究所』所長。著書『アメリカ帝国への報復』鈴木主税訳・集英社(2400円)、『帝国の悲哀――軍国主義、秘密主義、共和国の終焉』(未邦訳・仮題) The Sorrows of Empire (Metropolitan Books; January 1, 2004)がある。

 以下は氏の沖縄についての本格的な分析レポート。「見えない沖縄」「見捨てられた沖縄」「米帝国の治外法権の地としての沖縄」「日本のゴミ捨て場としての沖縄」など恐らく内地の日本人にはない鮮烈な内容である。日本の保守派が漠然と考えている「沖縄米軍基地絶対化論」とは異なる、もう一つの「沖縄米軍基地論」といえる。ジョンソンの沖縄論は、沖縄問題は日本の国内問題なのではなく冷戦以後の世界史的な問題であることが明白に読み取れられる。「見えない県」としての「沖縄流刑地論」は興味深い。われわれ日本国民にとっては、特に「本土の日本人」にとっては、かなり衝撃的な言葉であり分析だろう。現在の沖縄米軍の実態分析は、これもまた衝撃だ。特に≪国家の主権者である日本国民には、米軍の存在が見るに耐えないので、徳川幕府がオランダ商人を長崎の出島に隔離したのと同じ発想で、本土日本人の目から米兵の姿を隠すため……≫に米軍基地を沖縄に隔離しているのだろう、という「沖縄出島論」の指摘は白眉である。

 『チャルマーズ・ジョンソン、帝国の治外法権を語る』より 初出:トム・ディスパッチ・サイト 2003年12月5日(訳者まえがき)

 本稿でチャルマーズ・ジョンソンは、沖縄で実際に発生した3件の米軍人強姦事件の検証を手掛かりに、通常は断片的にしか聞こえてこない日米安全保障条約と地位協定の実相を総合的に報告しています。(TUP 井上 利男)  

 編集者トム・エンゲルハートによる前書き

 わが帝国がどのような類のものであるにせよ、すでに60年近くも前、第2次世界大戦最後の激戦の渦中に、沖縄はアメリカ帝国の照準器の視野に捉えられていた。2003年初めから今まで、アメリカによる日本占領の成功について、それと最近のイラク情勢との比較について、多く書かれてきたが、占領の暗い裏面、すなわち沖縄について語った者は少ない。沖縄は日本列島から切り離され、米軍絶対支配下に置かれた。さまざまな改革が日本本土で実施されたが、沖縄に届くことはなかった。(1955年に)日本が主権を回復してからも、基本的に沖縄は米軍独裁体制なるものの支配下に放置されたままだった。  ジョン・ダワーが、第2次世界大戦後の日本占領を詳述する歴史書『敗北を抱きしめて』に書いている。「沖縄は、その戦略的好位置のために、アメリカによるきわめて厳しい管理のもと、秘密のベールにすっぽりおおわれたまま冷戦下の大規模軍事基地へと変貌させられているところだった。占領期をとおして、というより、1955年になるまで、沖縄についてのニュースや論評は[日本の]報道メディアにいっさい登場しなかった。事実上目に見えない県である沖縄の流刑地としてのイメージは、まことに説得力があったのだ。」(岩波書店刊・同書下巻240ページ。[括弧]は引用者による補筆)

 1972年、沖縄施政権が日本に公式に返還されたが、ここに掲載する論文でチャルマーズ・ジョンソンが指摘するように、その時点までに、島は、野放図に広がる米軍基地群、アジアの沖合に陣取る不動の巨大空母、朝鮮戦争、ベトナム戦争と続いたアメリカの対アジア戦争を遂行するための集結・兵站基地に仕立て上げられていた。ジョンソンが彼の新著『帝国の悲哀』で論じているように、アメリカが「基地の帝国」であるならば、沖縄は現代の基地の原型であると見てもよいだろう。島にある課題へのアメリカの対応が、ブッシュ政権の帝国的単独行動主義を語っているのと同じように、あの縮図の島に軍が自らのために確立した特権の物語は、世界の別の場所でのアメリカの帝国的強迫衝動についても多くを語っている。沖縄は琉球列島の小さな島に過ぎないかもしれないが、アメリカがどのように世界を組み立てようとしてきたのかを示す打ってつけの実例なのである。 さて、ここに掲載する論文は、基地の帝国・アメリカの鍵になる基地と、そこに見られる現在の危機について非常に詳細に記している。短かさが褒められるインターネットでは、これほど長いのは尋常ではないが、今はその長さこそが重要なのだ。わが帝国軍と、その地球規模の働きについて語るならば、悪魔は文字どおり細部に宿っているからである。トム(署名)

 3件のレイプ事件 ―駐留米軍地位協定と沖縄― チャルマーズ・ジョンソン『日本政策研究所』報告書97号・2004年1月刊

 (2002年9月30日時点で)公式に認知された703ヵ所の海外米軍駐屯地は、構造、法制、概念のどこから見ても植民地とは違っているが、それ自体が、被占領国の管轄権を完全に超越したミニ植民地まがいのものである。[1] それこそ常に、米国は表向きは独立国家である「被駐留」国との間に『軍隊の地位に関する協定』を取り交わす。被駐留国のいくつかは、あらゆる点で米国のものよりも(おそらくはずっと)進んでいる法律制度を備えている。 アジアにおける地位協定は、19世紀中国における帝国主義的慣例である「治外法権」――外国人犯罪容疑者は、中国の法に則っり、中国の裁判所に突き出されるのではなく、自国の法に則って、自国の外交代表に引き渡される「権利」――を現代に受け継ぐものである。中国で商業にいそしむ「白人」は野蛮な中国の法に従う必要はないという理屈で、武力に物を言わせ、中国人に押しつけた慣習、これこそが治外法権なのだ。中国の法は、個人の罪状、とりわけ中国では招かれざる客である個人の有罪・無罪の確定よりも、犯罪につながる社会的因果関係の解明を重視していた。 1839年から42年まで続いた英中「アヘン戦争」の直後、米国が他国に先駆けて、自国民の「治外法権」を要求した。すると全西欧列強がそれに続き、同様の特権を獲得した。第1次世界大戦で中国植民地を失ったドイツ人は別だが、欧米人は中国で「治外法権」に守られた生活を送り、1941年、日本人が欧米人の治外法権を否定し、1943年、蒋介石率いる国民党が廃棄するまで、こういう状況が続いた。だが今でも、外国駐留米軍に配属されている男女は、自国政府ができるだけ幅広い治外法権的地位を確保して欲しいと強く求めている。現代の治外法権は、歴史的・文化的違いを無視し、相手国の刑事裁判法制を米国製の訴訟手続に準拠して改変するように迫る、米国から日本などの国ぐにへの強権的な圧力の形を取る。 駐留軍隊地位協定についての二人の専門家レイチェル・コーンウェルとアンドリュー・ウェルズは、「ほとんどの地位協定には、米軍当局が裁判権の移管に同意する例外的な場合を除いて、被駐留国裁判所の司法権は地元民に対して罪を犯した米国軍人におよばないと書かれている」と断定している。[2] 軍人は通常の旅券審査と出入国管理をも免除されているので、強姦や殺人事件の被疑者が現地の裁判にかけられる前に、彼らを出国させるという選択肢が軍にはあり、しばしば太平洋の基地の司令官たちはこの仕掛けに頼ってきた。

 2001年9月、ニューヨーク・ワシントンへのテロ攻撃の時点で、米国が公式に存在を認める地位協定の締約相手国は、総数93ヵ国だったが、協定のなかには、被駐留国にとって、あまりにも恥ずかしい内容のものがあり、特にイスラム諸国の場合、秘密のままにされていることがある。[3] したがって、ほんとうの締結件数は公には分からない。 米国の在外軍事基地は、植民地経営や外務関連の省庁ではなく、国防総省、中央情報局、国家安全保障局、国防省諜報庁、その他有象無象の当局、時に秘密国家機関の管轄下に置かれている。これら政府機関が、他国の土地に基地を建設し、人員を配置し、管理しているのであり、たいていの場合、アメリカ生活様式を模して整備された敷地をフェンスで囲み、守備で固めている。だが、海外駐留軍人の全員が家族持ちであるわけではなく、あるいは家族同伴赴任を望んでいるわけでもないので、イスラム諸国は別だが、普通の場合、基地に惹き寄せられて、バーと売春宿の大歓楽街が発達し、裏社会を牛耳る犯罪分子も集まる。被駐留国の民主主義政権が備えている、どのような公的機関・制度であっても、基地の存在が否応なく権限を奪い、歪め、腐敗させる。 生まれてこのかた見たこともなく、まったく理解もできない文化風土の中に、18才から24才までの若いアメリカ人たちを数千人規模で配属すれば、米軍基地を受け入れた諸国を悩ませる「偶発事件」が絶え間なく頻発して当然である。米国大使が駐在国当局を訪問し、兵たちの不始末を謝罪する……この光景が、たちまち定例行事になってしまう。親しい同盟関係にある英語圏の国であってさえ、地元住民は外国兵の性的暴行と飲酒運転に眉をひそめる。英国人は米兵を「金遣いが荒すぎ、性欲がありすぎ、駐留が長すぎ」と皮肉った。今も、何も変わっていない。

 不平等条約としての地位協定  

  日本の最南端に位置し、最貧県でもある沖縄は、米軍当局が、重犯罪を犯した軍人を日本側の法律から保護する盾として依拠する『日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定』をめぐって、2001年以来、ワシントン・東京・那覇の鋭い対立の舞台になっている。 地位協定は、日本国民の多くにとって、また沖縄県民のそれこそすべてにとって、1853年に来航したペリー提督の砲艦外交を端緒に、西洋帝国主義列強が日本に押しつけた「不平等条約」の現代版そのものである。2003年11月15日東京で、ドナルド・ラムズフェルド国防長官が日本政府当局者たちと会談し、「日本で公務中に犯罪の告発を受ける米軍要員の完全な法的保護を求めるアメリカの長年の要求に対して、日本政府が歩み寄ることを、改めて強く求めるつもりである」と語った。[4] アメリカのほとんどの新聞記事は、この不可解な発言が何を意味するのか、詳細を解説していないし、米兵、火器、戦闘機と隣り合わせて住まざるをえない日本国民の法的保護については、国防長官が同じように考慮しているのかどうかも伝えない。 2003年11月現在、日本配属の米軍制服組要員は4万7000人であり、それとは別に、神奈川県横須賀市・長崎県佐世保市に海軍基地を置き、時に洋上にある第7艦隊所属海軍将兵が1万4000人いる。さらに加えて、軍人家族が5万2000人、国防総省文官は5500人を数え、また、ゴルフ場管理、無数の将校クラブの給仕といったサービス業務から、中央情報局(CIA)と国防省諜報庁(DIA)のための日本の新聞記事の翻訳業務にいたる多種多様な仕事をこなしている日本国籍の米軍雇用者が2万3500人いる。[5]  これほど大規模な派遣部隊が日本国土に置かれた91ヵ所の基地に配属されている。沖縄の基地数は38ヵ所、総面積は2万3700ヘクタールであり、米軍施設は沖縄本島総面積の19%を占め、しかも一等地に立地している。沖縄配属の米軍人は2万8000人であり、それに同数の軍関係者、国防総省文官が加わる。沖縄で最大規模の派遣部隊は人員1万7600の海兵隊であり、東アジア最大の米軍基地・嘉手納空軍基地の航空パイロットと整備要員がそれに続く。これら招かざる客がいなくても、沖縄は、ハワイ諸島のカウアイ島よりも小さな陸地に、地元住民130万人が生活する人口密集地なのである。

 海兵隊の基地群は、(3師団ある米海兵隊のうち、ただひとつ米本土外に司令部を置く)第3海兵師団の司令部があるキャンプ・フォスター、金武町のキャンプ・ハンセン、具志川市のキャンプ・コートニー、名護市のキャンプ・シュワブ、それに沖縄第2の大都市・宜野湾市の中心部に、市域の実に25%を占めて広がる普天間海兵隊航空基地など、広大な立ち入り禁止区域を占めて展開している。すべての海兵隊基地は、1945年春夏の沖縄戦、それに1950年代・冷戦最盛期に設置されて以来、今も存続している。 このような沖縄に見られる米軍帝国主義の姿は、沖縄の極端な基地集中度を除けば、特に珍しくはない。ドイツ、イタリア、コソボ、クウェート、カタール、ディエゴガルシア、その他、どこでも見られる普通の光景であり、最近ではアフガニスタン、中央アジア、イラクに新たに出現した光景である。だが、他にはない在沖縄米軍基地の際立った特徴は、莫大な維持経費、すなわち総額76億ドルのうち、42億5000万ドルを日本政府が負担していることである。 その理由は、部分的には、国家の主権者である日本国民には、米軍の存在が見るに耐えないので、徳川幕府がオランダ商人を長崎の出島に隔離したのと同じ発想で、本土日本人の目から米兵の姿を隠すためである。1879年に日本が力ずくで併合した沖縄は、日本のプエリトリコとでも言うべき、文化的に異質な領土であり、行政当局からも本土住民からも、公的、社会的に長く差別されてきたが、その沖縄の地で、米軍将兵の快適な生活を保証することも、日本政府の負担金の狙いの一つである。

 このような基地経費負担を日本の報道は「思いやり予算」と呼び習わしているが、これは、アメリカは貧しいので、対外拡張政策を賄うことができず、だから同情すべきであるということを意味している。日本における米軍の地位を定めた協定(第24条)は、配備経費の全額を米国の負担としているが、思いやり予算が初めて計上された1978年以降、半額を軽く超える経費を日本政府が負担してきた。日本の他に、このような「被駐留地負担」の大盤振る舞いをしている国はない。[6]  結果として、任地の歴史と文化にまったく無知であり、上官からまったくと言っていいほど教育されなくても、沖縄の海兵隊員たちは、キャンプ・ペンドルトン第1海兵師団司令部が立地するカリフォルニア州オーシャンサイド、キャンプ・ルジューン第2海兵師団司令部が立地するノースカロライナ州ジャクソンビルに配属されるよりも、はるかに快適に生活できる。日本の予算を使って沖縄で建設された米軍関連施設を列挙してみれば、この2年間の新築だけでも、キャンプ・フォスターの「高級ホテル」、2~3寝室備えた家族向け近代住宅68区画の高層アパートが2棟、440㎡の青少年会館、第3海兵遠征軍楽団が練習し、演奏する「最先端」複合シアター、それに美術・工芸室、「娯楽センター」、大ホール、放送設備、撮影現像設備室をすべて備えた3000㎡の「公民館」がある。[7]  

   地位協定の下位に置かれた刑法

 講和条約和に付随して署名された1951年安全保障条約の改訂版である1960年日米安全保障条約は、おおむね1文章の短い10条からなる、かなり簡潔な文書である。地位協定の根拠は、「日本国における合衆国軍隊の地位は別個の協定により規律される」――安保条約第6条であり、この地位協定たるや、ずっと長文で中身の濃い28条からなる、きわめて複雑難解な法的文書である。安保条約本文の検索は容易だし、日本で出版される国際関係についての書籍にたいてい付録されている。だが、地位協定となれば、入手が非常に困難で、実質的に機密扱いになっている。日本国民が正確な翻訳文書を見つけるには、広く検索しなければならない。地位協定の公式名称は『日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する1960年1月19日に締結された協定』である。同協定は一度も改定されていない。[8](訳注: 『日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定』  地位協定のきわだった特徴のひとつが、「合衆国は、この協定の終了の際又はその前に日本国に施設及び区域を返還するに当たって、当該施設及び区域をそれらが合衆国軍隊に提供された時の状態に回復し、又はその回復の代りに日本国に補償する義務を負わない」――第4条(第1項)に見られる。すなわちこれは、米軍が思うがままに何を汚染しても、浄化責任の回避を許す、日本国民の多くと地方公務員のすべてにとって、実に許しがたい条項である。付言しておけば、米軍の環境保護にまつわる記録は言語道断な内容である。「合衆国軍隊の構成員は、旅券及び査証に関する日本国の法令の適用から除外される」――第9条第2項前段の定めにより、米軍人は、日本で犯罪を告発されても、出入国管理に遭わずに出国できることになる。「日本国は、合衆国が合衆国軍隊の構成員及び軍属並びにそれらの家族に対して発給した運転許可証若しくは運転免許証又は軍の運転許可証を、運転者試験又は手数料を課さないで、有効なものとして承認する」――第10条第1項は、たいていの日本国民が心底から嫌っている。とりわけ県内公道で車両の左側通行が復活した1972年以来、この条項のせいで、沖縄県民は衝突事故やひき逃げ事件という高い代償を支払っている。 第10条よりもひどいのが、「合衆国軍隊は、合衆国軍隊が日本国において保有し、使用し、又は移転する財産について租税又は類似の公課を課されない」――第13条(第1項)であり、沖縄県の(保守系)現知事・稲嶺恵一は、人並みに行政サービスを享受する米軍関係者の支払負担は、日本国民のそれに比べて5分の1にも届かず、米軍関係者の車両税が一般国民のそれと同率であれば、沖縄県の税収増は7億8000万円になると強調している。[9] 以上のような条項のどれひとつとして、NATO諸国との間の地位協定には記されていないことに注目しておくべきだろう。

 地位協定の条項のなかでも、とりわけ日本国民の最大級の大衆的怒りを買っているのが、刑事裁判を規定する第17条である。この条文は長さ2ページにおよび、12の複雑な項目で構成されている。米軍は第17条のすべての約定条項に頑なに固執しているが、沖縄県民の世論は、この条文の廃棄を文字どおり全員一致で要求していて、1995年9月4日に発生したキャンプ・ハンセンの海兵隊員2名・水兵1名による12才女子中学生の誘拐・強姦事件の影響で、このささやかな特権を廃止直前にまで追いこんだ。「日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員又は軍属たる被疑者の拘禁は、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行なうものとする」――第17条第5項(c)に、不愉快な条文が定められている。つまり、自国内で起こされた犯罪を捜査する日本の当局者は、日本側検察官が裁判所に起訴するまでは、米軍が確保している容疑者に、他者の同席を排して個別に面接(尋問)できないのである。また、このありさまでは日本側警察の捜査活動が思いどおりに進まなくなり、したがって検察官にしても、証拠不充分のままでは、米軍人の起訴を躊躇することになる。 1995年9月4日のレイプ事件の新聞続報で、学童被害者が入院している一方で、3人の軍人容疑者たちはプールサイドでのらくらし、ハンバーガーを食っていると報道されると、1960年に安保条約が調印されて以来、日本最大規模の反米デモが巻き起こった。沖縄にいる軍人は、皆、レイプ、強盗、暴行を犯した後、警察に捕まる前に基地に逃げ帰れば、外で日本の逮捕令状が発行されても、起訴されるまでは自由の身でいられると知っている。[原注] 被害児童本人の名前は、事件を受けて結成された団体『軍隊暴力に反対する沖縄女性行動』によって保護されている。  日本の刑事法は、送検または釈放の決定までの拘束期間、つまり警察が容疑者を留置・尋問できる日数を23日間と定めている。この間、容疑者は警察の捜査官に単独で向き合うことになり、捜査側は、日本のすべての検察官と国民の多くが「証拠の王」であると考えている自白を引き出そうと企てる。時間をかけ、情理をつくして道理を説けば、容疑者が過ちに気づき、罪を公に認めることによって、社会との協調を修復することができると日本人は信じている。道を踏んで確定した罪に対し、(司法取引制度は特別だが)アメリカの刑事訴訟に比べて、日本の裁判官はずっと寛大な温情主義で臨む。 その反面、日本の法廷で、被告が反抗的であったり、証拠・証言が揃っていても、無罪を主張するならば、厳罰に処せられることが多い。取り調べの最中、犯罪容疑者は弁護士の助言を求めることが許されないし、保釈も人身保護請求権も認められない。アメリカの場合に比べて、日本では、犯罪容疑者が逮捕され、起訴されたならば、有罪になる場合が多いが、日本の警察が無実の者を逮捕し、裁判官が冤罪に処することは少ない。[10]

 このような訴訟手続きは、日本文化に長く根ざしたものであり、米軍人にだけではなく、日本国内で逮捕された全ての容疑者に適用されるのだが、米軍側は、これが米軍兵を偽りの自白に誘導し、兵士の「人権」の侵害を招くと強く主張する。  地位協定第17条のもうひとつの項目、「合衆国軍隊の構成員若しくは軍属又はそれらの家族は、日本国の裁判権に基づいて公訴を提起された場合には、いつでも、次の権利を有する。(a)遅滞なく迅速な裁判を受ける権利、(b)公判前に自己に対する具体的な訴因の通知を受ける権利、(c)自己に不利な証人と対決する権利」――第9項が、起訴前の容疑者の日本側警察への引き渡しを米軍が拒む根拠である。このような要件は起訴前の取り調べ手続きを規定したものではないが、いずれにしても米軍は、日本はこの条項要件を満たしてはおらず、全体的に見て、米国の基準を達成していないと強弁している。「白人(米兵)は、人権尊重基準がわれわれのものとは違う異種社会の、いわゆる法に支配されない」――昔の中国での治外法権を、アメリカ人は現代に復活させているようだ。

   このような論理は、沖縄で(あるいは、米国人以外の人権保護にまつわる米国の底抜けの記録に鑑みて、世界のどこでも)たいした説得力を持たない。有力容疑者が米兵、被害者が沖縄県民である性暴力犯罪が勃発する度毎に、軍が容疑者の身柄の引渡しを拒むままに、日本側裁判所が逮捕状を発行し、知事からの呼び出しがあり、県議会で全会一致決議があり、地位協定の全面的改定を要求する街頭デモが繰り広げられる。1995年9月4日のレイプ事件以前には、米国は軍人犯罪容疑者を起訴前に日本当局に引き渡したことがなかった。だが、この事件の影響が重圧になって、米軍の沖縄駐留の継続を望むなら、米側が従来よりも柔軟に対処しなければならなくなった。それでも、副大統領を務めたこともあるウェルター・モンデール駐日米国大使(当時)が、容疑者たちを非難して、「怪物である」と公的な場で発言すると、被告側の米人弁護士たちは、大使がレイプ犯呼ばわりするようでは、被告3名が沖縄で公正な裁判を期待するのが不可能になったとモンデールを批判した。 1996年2月カリフォルニア州サンタモニカで、クリントン大統領と橋本首相が緊急に会談し、沖縄県民の怒りを和らげる方策を協議した。米国は最終的に譲歩した。地位協定第2条第1項(a)に基づく合同委員会の会合で、日本側が軍人犯罪者の日本当局への引渡しを要求すれば、容疑内容が「特に凶悪な犯罪」である場合に限り、これからは米側が「好意的に考慮する」と米国が同意した。ここで言う凶悪犯罪の範囲は定義されないままだが、一般的には殺人と強姦を意味している。

   地位協定の包括的な見直しではないが、このような「柔軟な運用」という新路線が合意されたにもかかわらず、1996年の20才日本女性に対する(喉裂き)殺人強盗未遂を米軍当局に自白した水兵の事件を唯一の例外として、その後の容疑者早期引渡し要求を米国はすべて拒絶してきた。[11]  3件の強姦事件  沖縄県行政に君臨する稲嶺知事の前任者は、元大学教授であり、琉球歴史についての多作の著述家、献身的な反基地活動家でもある(現在は、社会民主党・参議院議員)大田昌秀だった。対照的に、稲嶺は保守主義者者であり、反動的とまでは言えないにしても、非常に保守的な経歴(立候補前の肩書は琉球石油の社長)の出自である。彼は大田の反米軍占領闘争の経歴に対抗して出馬したのであり、政権与党・自由民主党および米軍との友好関係の回復を公約していた。 それでも稲嶺は、1998年12月から5年間の在職中、大田の姿勢にますます近くなり、今では、大陣容の島内配備・海兵師団を統括する現職の海兵隊中将に向かって、「軍の風紀を保てない無能者」と叱りつけることで名を馳せるようになった。[12]  稲嶺は、米軍人の異常に高い犯罪率を語るのに、松本清張の有名な推理小説のタイトル『点と線』を好んで引き合いに出す。米軍人がレイプなり殺人なりを犯す度毎に、いつでも米軍最高指揮官は、これは百万にひとつの「腐ったリンゴ」がしでかした例外的な「悲劇的事件」であり、特異な「点」であると言明し、アメリカ大使と司令官がこれみよがしに謝罪するだけである。これに対して稲嶺が言うには、沖縄県民の目にはこれは点ではなく線であり、性的暴行、酒場の乱闘、路上強盗、薬物濫用、酔払い運転事故、放火事件の58年間にわたる記録なのだ。 米軍の沖縄駐留は、東アジア全域に蔓延する政治的「不安定」から人びとを守るためであると若い米兵たちは広言し、増長しているのだ。ブッシュ1世当時のディック・チェイニーの訪問以来、国防長官としては13年ぶり、2003年11月、沖縄を訪れたラムズフェルドは、稲嶺知事に向かって、「わが日米両国に実り多い、われわれの相互安全保障条約が存在している期間、この地域は平和でありつづけた」と語った。[13] この期間に勃発した朝鮮戦争とベトナム戦争、そして兵站・集結基地としての沖縄の役割を明らかにラムズフェルドは見過ごしていた。 2003年11月16日、ラムズフェルドとの会見に際して、稲嶺は内外の報道記者を招き、地位協定の抜本的な見直し要求を含む、沖縄側の主張の概要を記した7項目請願書を無遠慮にも配布した。(今回のラムズフェルド訪日では、これがただ一回きりの公開会見だった) 後ほど稲嶺は、自分は故意に失礼に振る舞い、ラムズフェルドは「見るからに立腹」していたと認めたが、日米両国政府が沖縄(の置かれている状況)をまったく当然のこととしているからには、この「貴重な機会」を捉えて、県民の主張を訴えないわけにはいかないと説明した。[14]  この知事請願書には、日本への沖縄施政権の返還以来の32年間(1972~2002年)で、沖縄において米兵・国防総省文官・その家族による犯罪が5157件発生し、そのうち、殺人、レイプの「凶悪」犯罪は533件であるという沖縄県警の記録による情報が記されていた。つまり、凶悪犯罪の発生率は、1年で17.7件、1ヶ月で1.5件になる。[15] (オハイオ州のオンライン新聞)デイトン・デイリーニュースが伝えた有名な調査『軍人による性的暴行事件の軍法会議付託件数に見る世界各地域別・発生率比較』によれば、米兵1000人あたりで、沖縄では4.12件であり、それに比べて、キャンプ・ペンデルトンでは2.00件、キャンプ・ルジューンでは1.75件、サンディエゴでは1.07件、バージニア州ノーフォークでは0.80件である。 稲嶺は、この状況は何も変わっていないと強調した。実際、沖縄の重大レイプ事件の実に翌年1996年度以降では、軍人が犯す犯罪は年率1.3倍の勢いで増加している。[16]  稲嶺知事の毅然たる地位協定改定必要論者への変容は、彼が就任した早々に始まった。2001年6月29日、2002年11月2日、2003年5月25日と相次いで発生した3件の重大レイプ事件が彼の態度を硬化させ、日米両国が弄んでいた在日米兵の「人権」論議に、公然と対決の一石を投じた。この紛争をめぐって、外務・国務閣僚レベルおよび国防正副長官・防衛長官レベルで、さらにはブッシュ大統領と小泉首相との首脳電話会談で交渉がもたれた。両国政府の立場は平行線をたどるしかないようなので、最終的には、この対立は海兵隊の一部または全部隊の沖縄からの撤退を招くかもしれない。 ティモシー・ウッドランド軍曹の事例 両国政府の立場は平行線をたどるしかないようなので、最終的には、この対立は海兵隊の一部または全部隊の沖縄からの撤退を招くかもしれない。 (以下、重複のため削除)

  マイケル・J・ブラウン少佐の事例

 ブラウン少佐(41才)は、海兵隊在籍19年の古参兵である。2002年11月、沖縄本島中部――海兵隊員約4400名を擁する大規模な基地――キャンプ・コートニー第3海兵遠征軍司令部に彼は配属された。彼にとって、これは2度目の琉球赴任だった。ブラウンはいわゆる「ムスタング (野生馬)」――兵から階級を駆け上がった士官である。1984年、テキサス州メナールの自宅から海兵隊に入隊し、上等兵に昇格してから抜擢され、国庫負担の大学教育の機会を得た。テキサス農工大学で学び、1991年5月29日、少尉に任官された。その後も順風満帆で、2001年3月1日、少佐に昇進した。2002年当時、ブラウンは、基地外だが、近隣の具志川市内にある米軍住宅地で、アメリカ人妻リサ、幼い子ども二人と一緒に暮らしていた。 彼の事件に関わった誰ひとりとして、士官たる者が沖縄県警の厄介になった先例など思い出せなかったし、それまでの10年間、確かに一例もなかった。ブラウンが開設したウェブサイト『ブラウン少佐を救え』に、数多くの関連記事と資料に加え、彼が拘置所から投稿した長文で脈絡のない罵倒文書が掲載されているので、彼の経歴と考え方について、それに日本の警察と裁判官、沖縄県民一般、駐日米国大使ハワード・ベイカー、ジョージ・W・ブッシュ大統領、その他人物の公正さと力量について、彼の私見を非常に多く知ることができる。 2002年11月1日、その日の軍務を終えて、ブラウンはキャンプ・コートニー士官クラブに顔を出した。その夜は、カラオケ・パーティの夕べであり、ブラウンはカラオケが好きだと言う。その夜、同僚士官たち、それに(彼の妻はいなかったが)その妻たちと談笑し、グラスを傾け、玉突きをし、カラオケ伴奏に合わせ、マイクに向かって甘く囁き歌った。真夜中ごろ、クラブがお開きになると、基地裏通用門を抜け、3キロあまり離れた自宅へ歩いて帰ろうと思った。ところが、その夜は裏門が閉まっていたので、正門まで戻らなければならなくなった。クラブにコートを置き忘れたので、寒くなってきた。酔ってもいたと彼は認めている。 ブラウン本人の供述によれば、2002年11月2日午前1時ごろ、キャンプ・コートニーの正門へ向かって歩いていると、沖縄に嫁いでいる40代フィリピン人女性であり、レジ兼ウェイトレスとして士官クラブで働くビクトリア・ナカミネ(漢字表記不明)に、お宅までお送りしましょうかと声をかけられた。(訳注:沖縄タイムス2002年12月5日 マイケル・J・ブラウン容疑者は乗用車で帰宅途中だった被害女性に、「深夜でタクシーを呼べない。自宅まで送ってほしい」と乗車を懇願し、女性の善意に付け入る形で犯行に及んでいたことが4日、分かった) その後の経緯については、係争中である。彼女の車でキャンプ・コートニーを出てから、閑静な道路上に車を停め、正しい道筋について激しい議論になった。あきらかに助けを呼ぶのを邪魔するために、ブラウンがナカミネの携帯電話を奪い取り、近くの天願川に投げ込んだことは両者共に認めている。 ブラウンの供述では、激昂した彼女は正門へ歩いて戻り、彼が二度にわたりレイプしようとしたと憲兵隊に訴えでた。憲兵たちは、基地外の事件であれば、沖縄県警を呼ばなければならないと応えた。具志川署の警察官たちが現場に駆けつけて、イナミネが申し立てる、ブラウンが淫らな行為におよび、衣服を剥ぎ取ろうとしたという告訴を受けつけた。彼女の供述によれば、なんとか彼に抗って車から抜け出た後、男が冷静になったかどうか、様子を見に戻ると、彼は携帯電話を奪い、さらに強姦しようと試みた。彼女の主張では、攻撃をかわすために、彼女は猛然と争った。その後、彼は走って自宅へ逃げ帰り、彼女の方は、事件を通報するために、キャンプ・コートニー正門へ車で戻った。 ブラウンの主張は首尾一貫しない。いかにも声高で不愉快だったが、自分たちは口争いをしていただけだと説明したかと思えば、女が誘いをかけてきたと言ったりする。「女に誘惑されたが、私は誘いに乗らなかった。だから、その怒りのせいで、彼女は告訴してしまったのだ」と彼は繰り返し主張してきた。[23]  基地正門を警備していた米兵たちは、ナカミネが現れた時、着衣は特に乱れず、きちんとした服装だったと断言している。その一方、アメリカ民間人の士官クラブ支配人であり、ナカミネの上司であるリチャード・ドウォルドは、事件に関する彼女の供述を追認している。彼女は犯人の名前を知っていなかったので、ナカミネが車に乗せた人物はブラウンであると警察に告げたのは、ドウォルドである。 ナカミネの告訴を受けて、警察は慎重に捜査を進め、1ヶ月も経ってから具体的な処置をとった。2002年12月3日、那覇地裁が強姦企図・器物(携帯電話)損壊容疑でブラウンの逮捕状を発行した。[24] 東京の外務省が海兵隊に身柄の引渡しを要請した。米国大使館は、回答を2日間遅らせたすえ、「この事件に関して日本政府が提示した状況は、日米両国間で合意された標準的な慣行からの逸脱を正当化しないという結論に合衆国政府は達した」と言明し、ブラウン少佐の拘置は米側が継続するとそっけなく表明した。沖縄の報道陣は、米側は強姦未遂を「凶悪犯罪」と考えていないと推測した。このような米側の非協力的な態度は、おそらく海兵隊関係者だけは別にして、誰にとっても喜ばしいものではなかった。 12月6日、大勢の警察官がブラウンの自宅と執務室を捜索し、証拠になりそうなものをすべて押収し、事のなりゆき上、妻子を恐がらせてしまった。[26]  小泉首相は、自分としては、米側の拒絶を了解すると発言したが、彼の外務大臣・川口順子はそこまで迎合しなかった。1995年の「好意的な考慮」に関する合意内容に何が含まれているのか、日本側は釈明を求めなければならないし、昔ながらの地位協定の弾力的運用と言っても、協力するか非協力であるかは、米側の自由裁量に任されたままなので、今回の事件には不満が残ると川口は主張した。[27]  稲嶺沖縄県知事は、「綱紀粛正と予防措置をわれわれが何度も要求しているのに、さらにまた米軍人によって問題が起こされた……これは、兵士たちに模範を示すべき指導的クラスの幹部軍人が女性の人権を蹂躪(じゅうりん)した凶悪犯罪なのだ。きわめて遺憾であり、私は強い義憤の念を抱かざるをえない」と吐き捨てるように言った。 沖縄県議会は、米軍にブラウンの引渡しを要求する抗議決議案を全会一致で採択した。極めて意義深かったのは、米軍基地が立地する都道府県の全14知事で新たに結成された連絡協議会が、「米軍地位協定の改定によって、真の日米協力関係を樹立する」ことを求め、自由民主党に申し入れたことである。[28]

 ついに2002年12月19日、那覇地方検察庁がブラウンを起訴し、地位協定規定に厳密に基づき、即日、米国は身柄を引き渡した。[29]  ブラウンは、その時から家族の協力を得て、前代未聞の法廷闘争キャンペーンと並行して、日本の刑事裁判制度は不公正であり、米国当局者たちは、日本国内の基地を維持し、目前に迫ったブッシュのイラク侵略に向けて日本の協力を得るために、彼を無実の罪に陥れようとしている…などと主張する扇動的な宣伝活動を展開した。 ブラウンが最初に打った手のひとつが、全米軍事司法集団に所属する米人弁護士ビクター・ケリーの確保であり、2003年3月7日、同弁護士はワシントンDC連邦裁判所に人身保護令状の緊急発行を請求した。米政府は、ブラウンを日本側に引き渡して、アメリカ公民として憲法で保障された彼の権利、すなわち「強圧的な刑罰を免れ、実効的な弁護を受け、正当な保釈を保障される権利」を侵害していると彼は主張した。「(日本では)正当な法手続きになんの意味もない。日本の『有罪判決』率は100%近くである。起訴されることは有罪宣告と同じだ。推定無罪は司法のたてまえにすぎない。ほとんど例外なく、全被告は有罪であり、誰ひとり無罪放免されない」と彼は付け加えた。事態を打開するために、「被告(すなわち、アメリカ合衆国)が……日本国政府に『好意的な考慮』を促して、この件にかかわる優先的裁判権を放棄するように要請することを命じ」、さらに「被告(合衆国)が優先的裁判権を行使することを命じる」判決を彼は求めた。これこそは、150年も昔の中国で宣言されたのと変わらない治外法権の論理の完璧な実例である。 言うまでもなく、ワシントンの法廷は請求を却下したが、提訴の事実があるだけでも、ブラウンは実績を補強できたのである。[30]  ブラウンは政治の力の動員も図った。上院議員ケイ・ベリー・ハチソン(共和党・テキサス州)およびブラウンの出身地であるテキサス州第21区選出・共和党下院議員ラマー・スミスの支持を彼は取りつけた。両議員は、国防長官に、ブラウンは公正に処遇されていないと懸念を表明した。ブラウンはさらに政治的賭けに出て、友人たちと海兵隊仲間たちに、「ブッシュ大統領は、日本政府が無実の海兵隊員を迫害しているのを、もはや看過できないとして介入すべきであり、今や遅きに失している」とそれぞれの居住地の選出議員に宛てて書くように強く要請した。 ブラウンが拘置所内から時機に応じて発信した実況報告は、沖縄に駐留する海兵隊内部で広く配信された。彼の論点は数多いが、とりわけ隊員たちへの警告として、「日本で逮捕された米軍人が、後で無実とされるケースは一例もない」と論じたてた。時が経つにつれ、彼は、海兵隊の法務職員から一般の沖縄県民まで、思いつくかぎりの誰彼に対し難癖をつけ始めた…すなわち、「オキナワ人が自分の土地と島を取り戻すのを見たいものだ。米国の軍人が島を離れ、他所で金を使うのを見たいものだ。そうすれば、いやらしいオキナワ警察連中がわが同胞に手をかけずに済む。この解決策が全員をハッピーにできる。違うか? 誰が見ても、オキナワ人はわれわれがここにいて欲しくないのだ。自分の地域経済にわれわれ米兵が金を注ぎこんで欲しくないのだ。わが米軍基地が提供する雇用が欲しくないのだ。連中の敵に対する抑止力であるわれわれを欲していないのだ。隣人であるわれわれを欲していないのだ」[31]

 この類のレトリックは、実効的な防衛戦略と言うよりも、ブラウンの傷ついた自我を代償する慰めと言うべきである。だが、(海兵隊)最高司令部を動かして、政治家・政府当局者たちに向かって、軍が地位協定の弾力的運用について不満に思っていることを表明させるには効果があったようだ。 2003年5月13日、ブラウンの主張にとって、公開法廷で大きなチャンスが巡ってきた。ビクトリア・ナカミネが、「私は告訴を撤回したかったのです。私は上手に日本語を話せません。自分の供述書に署名はしましたが、何が書かれていたのか、知りませんでした」と証言したのである。さらに彼女は続けて、「私は告訴を撤回したいと言いましたが、警察官と検察官たちは聞いてくれませんでした」と陳述した上申書を、5月1日に裁判所に提出したと言った。 これは決定的な転機だった。那覇地方検察局次席検事・川見裕之が、「本件は被害者からの告訴に基づき起訴される不法行為であり、被害者の意志に逆らって刑事訴訟として立件するのはありえない」と陳述した。[32] この新しい事態に対応して、裁判所は、保釈金1000万円、旅券を預けること、行動範囲をキャンプ・コートニー基地内に限ること、沖縄を離れようとしないことを条件に、ブラウン少佐の保釈を許可した。日本の裁判所は弁護側からの保釈申請の14.7%しか許可しないので、これは異例の処置だった。[33]明らかに裁判所はナカミネの告訴撤回発言に影響されたようだ。 だが、日本における刑事裁判は、陪審団によってではなく、3名の裁判官によって審判されるのであり、その裁判官は、人が真実を語っているか否かを見抜くことにかけては自他ともに認められている経験豊富な専門家であると知るべきである。彼らはアメリカ流儀の証拠採用規則に縛られていないし、事件に関連するものなら、伝聞証拠、噂、流言を含め、なんでもすべて聞くことができるし、聞きたいと思っている。日本の法規で、アメリカの慣例に比べて称賛に値する特徴のひとつに、性犯罪被害者である女性の証言は犯罪者のそれよりも重視しなければならないという裁判官が自らに課す規則がある。 横田信之裁判長は、おそらく雇用者および係累からの圧力を受けて、ナカミネは撤回したのだろうが、最初に警察に語った供述は信用に価すると判断し、ブラウン裁判の続行を決断した。 ここで、ブラウンの怒りが爆発した。ブラウンは、ベイカー米国大使宛ての書簡で、「裁判官と検察官が癒着し」、また、ナカミネが自分は日本語が読めないと認めているにもかかわらず、具志川署が供述書を作成し、彼女に署名させて、彼に濡れ衣を着せたと告発した。また彼は代理人に指示して、まず福岡高等裁判所、次いで最高裁判所に、事件を担当する裁判官3名は、あきらかに彼に反感を抱いているので、解任を求めると抗告した。いずれの抗告も不首尾に終わったが、この行動によって、ブラウンの事件が新聞紙面を賑わしつづけ、米大使館が地位協定に必然的に付随する文化摩擦を憂慮することになる一因にもなった。[34]  2003年夏までに、ブラウンのウェブサイトへのヒット数は6万8000を超え、日本の司法は公正なのかと、議員政策秘書たちから問い合わせが殺到し、それに応えることが国務省の日常業務のようになった。加えて、イラクでの戦争も影響をおよぼし始めた。米兵たちの死者数が増え続けるにつれ、国防総省は、志気喪失を防ぐために、軍人の「人権」を擁護しなければならないという感触に駆り立てられるようになった。朝日新聞は、米政府当局者が「米軍兵たちは、日本を防衛するために沖縄に駐留している。必要あれば、彼らは死ぬ覚悟でいる。それなのに、事あるごとに、すぐに彼ら(沖縄県民)は米軍人を罪人扱いする」と語ったと報道した。[35]  こういう状況において、沖縄女性に対する野蛮な強姦・殴打事件がさらにもう1件発生し、なお一層の大衆的な反基地感情を煽りたてた。米政府としては、容疑者を速やかに引き渡さなければならないと承知してはいたが、日本政府に強く迫って、従来よりも米国基準に適合して、余儀なく日本の刑事訴訟手続きを修正させるべき時が来たと結論した。この重大決定により、日米関係は暗礁に乗り上げることになった。

 ホセ・トレス上等兵の事例

 金武町は、金武湾と太平洋に向かって開いた、かつては清浄だった海浜を数多く擁している沖縄中部の小さな村落である。現在の浜辺は、海兵隊が上陸作戦の訓練と軍人・家族のリクリェーションのために使用している。広大に展開するキャンプ・ハンセン、そして5800名の海兵隊員たちの存在が、村で他を圧倒している。史上最大の沖縄県民の米軍排斥運動のきっかけになった1995年の12才学童少女の誘拐・殴打・輪姦事件も、現場は金武町だった。また、1995年まで、155ミリ砲弾を街越しに発射し、森林山地を根こそぎにし、出火させていた定期的な海兵隊の火砲実射訓練の場も、金武町だった。1995年、強姦事件で沖縄県民の怒りが爆発した時だけは、さすがに海兵隊は砲撃を中止した。 アメリカのどこであっても、あるいは日本本土のどこであっても、金武町でのと同じように、海兵隊の行動がそのまま再現される(あるいは許される)とは、とても考えられない。その反面、1950年代末期、キャンプ・ハンセン設営のために米国軍隊が銃剣を突きつけて占拠した土地の代償として、今でも金武町の多くの老齢住民たちは日本政府が支払う地代を生活の糧にしている。 ブラウン少佐が書いた粗雑な論評記事のひとつに、金武町についての彼の印象が示されている――「金武町の唯一の存在目的は、米兵接待である。基本的にこの町は、故郷から数千マイル遠く離れ、性欲ムンムンの若い男たちの遊び場である。なるほど売春は沖縄の法に違反していても、沖縄当局と米軍当局の全面的理解と支持のもと、金武町は堂々と営業している。米兵たちはバーでしこたま呑んで、喧嘩し、ママサンに金払って、ガールフレンドを席に呼んでもらう。取引きとしては、手技、尺八、生の本番、その他なんでもござれだ」[36]  金武町をこの足で訪れ、町役場の皆さんに基地の存在と「軍事訓練」の影響についてインタビューした経験者として、筆者(チャルマーズ・ジョンソン)は付言しなければならない――ブラウンの描写が真実であるのは、キャンプ・ハンセン正門前に続く、バーとナイトクラブが200ばかり軒を連ねている道路沿いの小さな界隈に過ぎない。 2003年5月25日(日曜日)未明3時15分ごろ、キャンプ・ハンセン所属海兵隊員ホセ・トレス上等兵(21才)は、女性(19才)同伴で金武町のバーを出て、もよりの路地で性交し、女性の顔面を殴打し、鼻をへし折った。彼女の女友だちがキャンプ・ハンセン正門へ行き、トレスの犯行を通報したので、ただちに憲兵隊が彼を拘置した。6月12日、地元警察が捜査を開始し、6月16日、強姦・傷害容疑でトレスの逮捕状を取った。 同日、東京の日本政府が米国大使館にトレスの身柄の引渡しを要請した。新しく着任したばかりのハワード・ベーカー大使は事件を謝罪し、沖縄駐在海兵隊総司令官ウォーレス・C・グレッグソン中将に対し、速やかに応じるように督促した。グレッグソン中将は逡巡したが、それでも稲嶺知事を訪問し、「遺憾」を表明した。稲嶺は、「できるだけ早く、一刻でも早く、(米国が)容疑者を日本側に引き渡すことを期待する」と応えた。[37] ベーカー大使は、日本側の地位協定の全面改定要求が高まる前に、なんとか機先を制して、それを抑え込むように努力したいと語った。コリン・パウエル国務長官も、ASEAN(東南アジア諸国連合)地域フォーラム会合出席のために訪れていたプノンペンで、川口順子外相に謝罪した。 逮捕状が発行されてから2日後の6月18日、海兵隊がトレスの身柄を引き渡した。トレスは当初、「合意」のセックス、つまり被害者は金で買った売春婦だったと主張していたが、7月8日、検察が彼を起訴した後は、強姦と殴打の罪を認めた。9月12日、那覇地方裁判所はトレスに禁固3年6ヶ月を宣告した。[38]  地位協定交渉  今回の事件は、沖縄における軍人性犯罪の膨大な記録のなかで、陳腐でありふれた典型例のひとつに過ぎなかったが、それでも日米両国政府にとって、我慢の限界を超えるに充分だった。日米両国は出口の見えない難局に立ち至ったのであり、これを解きほぐすには、「地球規模の武力再配置」など、米側から口実を設けて、沖縄から相当数の海兵隊員を撤退させる必要があった。[39]  日本側としても、地位協定と日本の主権の問題を天下に曝しているトレスの事件に加え、多くの係争を抱えていた――  ブラウン少佐裁判は継続中だった……3月、キャンプ・ハンセンの国防総省職員が酔払い運転で正面衝突事故を起こし、相手車両に乗っていた沖縄県民を死に到らしめた……5月7日、海兵隊員が徒歩で帰宅途中の店員を襲って、強盗容疑で逮捕された……沖縄市内のバーのトイレで、キャンプ・フォスター配属海兵隊員の妻が沖縄女性を殴打し、首を絞めようとした……給料日の翌日にあたる5月31日の午前1時から3時にかけて、海兵隊員5名が酒に酔ったあげく、タクシー料金4800円の踏み倒し、個人住宅への不法侵入、沖縄市市民会館の玄関ガラスの損壊の各容疑で逮捕された。沖縄市は嘉手納空軍基地にじかに隣接していて、かつてはコザ市と呼ばれていたが、コザの地名が、バーの絶え間ない喧燥と米軍人同士の人種間暴動に重なる同意義語になってしまったので、琉球列島の施政権が日本に返還された1972年、市の名称が変更になった。 2003年6月いっぱい、稲嶺知事が副知事を伴って、他の米軍施設立地13都道府県への「巡礼」訪問の旅を行い、地位協定改訂を政府に強く求める沖縄県の政治運動への協力を各知事に要請した。全知事が了解した。稲嶺の最大の成果は、人気者の右翼政治家であり、長く米軍基地にに敵意を示してきた石原慎太郎・東京都知事の支持を得たことである。[41] 石原は、「日本に基地がなければ、アメリカは国際戦略を遂行できない。わが国はアメリカに多大な恩恵を与えているのだ……第2次世界大戦が終結して半世紀が経ったというのに、日本は劣等国の地位に置かれたままである。これは誰が見てもおかしい」と論じた。[42] 世界最大の都市の行政責任者であり、総理大臣候補の呼び声も高い人物による、この類の発言は、アメリカ追従姿勢は終りにするべきだと政府に要求するうえで、現実的な圧力になる。しかし、日本側が足場を固めているうちに、アメリカ側も強硬姿勢で臨むと決意していた。米大使館は、トレスの身柄の日本側警察への引き渡しにあたり、米軍人が「県警察署に留置されている間、公正で人道的な処遇」が保証されるように、即座に交渉に入ることを望むと表明した。[43] 米側の言い分では、起訴前の身柄引渡し要請に対して、「好意的な考慮」を払うことを1995年に同意した時に、その交換条件として、日米の法律制度の違いを考慮し、日本が米軍人に特別待遇を与えることを米側が要請していたと言う。そこで米政府は、日本側が地位協定の履行規定の新たな規範を無視しないこと、それも45日以内に実行に移すことを要求した。朝日新聞報道によれば、米側はブラウンの事件に影響されているのであり、当のブラウンが無罪をあくまでも主張し、裁判が続行中であるにもかかわらず、日本では公正な裁判が受けられないと信じているために、みずからの弁護を拒否していることに拘(こだわ)っていた。 また朝日は、ハーグに新設された国際司法裁判所への参加を米国が拒否していることを踏まえ、ブッシュ政権は、単に日本だけではなく世界に対しても、新基準を設定していると論評した。かつて米国がみずから成立に協力した多くの国際条約に従うことを拒否していること、法的根拠がないままにイラクを侵略したこと、力を過信して、国際問題で多かれ少なかれ思うがままに行動していることも朝日は指摘した。

 たぶん日本で基地問題において一番の情報通である琉球大学教授・我部政明が、「ウオルフォウィッツ米国防次官その他の現政権当局者たちは、アメリカの司法は世界のどこでも通用すると信じているのであり、日本との2国間関係への配慮を必ずしも重要視していない」と語り、朝日はこのコメントも引用している。我部によれば、イラクとアフガニスタンにおける困難な軍事作戦のために、米国は、軍の風紀の乱れに対する沖縄の果てしない不満よりも、兵士たちの志気を重視している。[44]  日本側が交渉要請に応じ、7月2日、東京で協議の場が設けられた。日本側主席代表は外務省北米局参事官・長嶺安政であり、法務省と警察庁の担当官たちが同席した。アメリカ側の代表は、国務省対日政策局長ブライアン・メーラーだった。米側は、日本側に引き渡された軍人容疑者すべてに、当人が尋問内容を理解し、詐欺的な誘導尋問による自白を避けるために、米国政府関係者および米側費用負担による通訳を同伴させることを要求した。法務省と警察庁は、この要求は、日本で確立されている捜査手順への受け入れがたい干渉であると発言した。米側は、他の大半の諸国との地位協定では、米側が軍人容疑者を相手国に引き渡すのは起訴の後であり、日本に対しては、すでに「特恵的な措置」で臨んでいると応じた。交渉は2日間空転して、行き詰まった。合意を目指す2回目の交渉は、7月11日に米国防総省内で行われることが取り決められた。 協議がワシントンで再開されたが、東京交渉よりも実り多いものにはならなかった。すでに日本側が外国人拘禁者に優れた通訳を提供していたので、通訳問題は主要争点にならず、すべての尋問への米政府関係者、おそらくは弁護士の立ち会いの問題が中心課題になった。 

   日本側は、「わが国では、通常の取り調べに法律家の立ち会いは許されていないし、日本側による取り調べに合衆国政府関係者の立ち合いを認める義務が日本にあるとは、地位協定のどこにも書かれていない」と主張した。[45] 風紀を保ち、沖縄での性犯罪を防止するために、アメリカ当局が取った対策は不十分であるとも日本側交渉担当者は指摘した。米側は、協議に進展が見られないならば、将来、米軍容疑者を起訴前に引き渡すことに米政府は同意しないだろうと応じた。両国が合意できた唯一の結論は、7月24日に、ホノルルの合衆国太平洋艦隊司令部で次回の会合を開き、合意を目指すことだけだった。 ホノルルでは、米側主席代表は、レーガン政権時代の国家安全保障会議の元職員、その前にはCIA作戦諜報員で、韓国語が話せるといわれている国防副次官補代理リチャード・P・ローレスだった。外務省は、米側の要求を受諾する用意があると明言したが、それに対し、法務省と警察庁は断固反対だった。日米両者とも、高レベルの政治判断を仰がねばならないとして、交渉は失敗に終わった。 7月25日から29日までの間のある日、外務省が大いに驚いたことに、ブッシュ大統領から小泉首相に電話があり、事態について会談した。その結果、内閣官房副長官・古川貞二郎が外務省と法務省の高官たちに譲歩案の作成を指示した。 そこで7月31日、ワシントンで4回目の会合が開かれ、「凶悪犯罪」の場合に限られるが、尋問に米政府代表の立ち会いが許されると日本側は認めた。ここで言う米政府の関与が認められるのは、「人権」上の理由ではなく、日米間「捜査協力」の名目からである。取り調べの決定的な局面で、米側関係者の暫時退室を、日本側の自由裁量で求めることができる。米側は通訳の選定にも関与することになる。 米政府は、米側関係者に加えられる、いかなる制限事項も容認できず、凶悪犯罪に限らず、すべての告発について米側の立ち会いが認められるべきであるとして、この譲歩案を拒否した。交渉決裂の結果、1995年の「好意的な考慮」同意は空証文になってしまった。米軍人の人権が保障されないことには、米軍の志気が喪失してしまうので、この件に関して、米側には他の選択肢はないと国防総省筋は語った。

 日米両国が地位協定交渉を断念してからの数ヵ月間、米国は東アジア駐留基地政策を大幅に変革しようとしているという風説が絶え間なく流れた。 現代世界の民主主義国のなかで、たぶん反米色が一番鮮明な韓国では、地位協定改訂を要求して、あるいはもっとラジカルな一派の言い方では、同国からの米軍全部隊の撤退を要求して、大規模な街頭デモが頻発していた。(こうした状況への対応策として)ラムズフェルド国防長官は、ソウル中心街の旧日本帝国軍司令部にある米軍ヨンサン基地を、どこか別の辺鄙(へんぴ)な土地に移し、北朝鮮領域と接する非武装地帯に近接して駐留する第2歩兵師団を、具体的な場所は未公表だが、漢江の南に移す計画があると公表した。 ダニエル・イノウエ上院議員(民主党・ハワイ州)は、自民党訪問団に対して、ハワイ経済再生策の一環として、米国が沖縄駐留の海兵隊の一部をハワイへ移す可能性があると示唆した。外務省とリチャード・アーミテージ国務副長官との間で頻繁に行われた協議の場でも、「米軍の沖縄駐留形態の合理化策」について突っ込んだ議論が交わされた。 日本のマスコミは、従来、この主題は日本側から、あくまでも形式的に提起されるのが常だったが、合衆国が「対テロ戦争」を宣言し、アフガニスタンとイラクを侵略してから、(軍事プレゼンスの)合理化について合衆国は何らかの手を打つことに関心を深めつつあると観測している。 

 11月上旬、ラムズフェルド国防長官が日本、沖縄、韓国を歴訪した。彼は、日本の土地に多数の米兵が駐留していることが摩擦の種であり、「緊張の最たるものは、たぶん、犯罪の容疑をかけられた米軍人に、より徹底した法的保護を与えるべきかどうかの問題である」と指摘した。[48]  ジョージ・W・ブッシュ大統領が、2003年11月27日、「わが国兵力の海外駐留体制の見直しが進められているが、この件に関し、連邦会議、友好・同盟諸国、それにパートナー諸国との協議に、われわれはなお一層の努力を傾ける」と公式声明で語った。[49]国防総省が従来にもまして「対テロ戦争」に焦点を絞っているので、ドイツ、日本、韓国などの諸国は駐留米軍兵力の相当規模の削減を期待できるだろうと米政権筋は指摘した。 これが実現するのかどうか、実現するとして何時になるのかを知るのはもちろん容易ではない。これまでの58年間、沖縄は米国の軍事植民地であり続け、その全期間を通して、米兵による地元女性への強姦が米国の帝国的駐留のもっとも顕在的な象徴であった。ウッドランド軍曹、ブラウン少佐、トレス上等兵の不品行が最終的に沖縄の解放を招くとすれば、実に皮肉なことと言えるだろう。(本稿・終わり 以上はiRam/1.16-20より)

  [原注]は省略しましたが、箇所を番号で示してありますので、必要があれば、下記JRPI(日本政策研究所)サイトをご参照ください。 [原文] Tomgram: Chalmers Johnson on imperial rights posted December 5, 2003, at Tom Dispatch site THREE RAPES: The Status of Forces Agreement and沖縄 By Chalmers Johnson JAPAN POLICY RESEARCH INSTITUTE JPRI Working Paper No. 97, January 2004 Copyright (C)2003 Chalmers Johnson  著作権者チャルマーズ・ジョンソンよりTUP配信許諾済み。

 ●以下もチャルマーズ・ジョンソンの『沖縄論』  

 これは、左翼活動家による要約のようだが、チャルマーズ・ジョンソンの沖縄論の真意は、このいささか党派的な要約からも、充分に読み取れるだろう。「日本がアメリカの軛を脱するには沖縄基地という「ベルリンの壁」を壊すことだ」というチャルマーズ・ジョンソンの提言は重い。 http://www.workers-net.org/wk227item.html 日本がアメリカの軛を脱するには沖縄基地という「ベルリンの壁」を壊すことだ  チャルマーズ・氏の沖縄論を論評する   『サピオ』の6月12日号に、表題になったチャルマーズ・ジョンソン氏の沖縄論が掲載されている。実に興味深い論文なので、以下に論評していきたい。

 ■チャルマーズ・ジョンソン氏の日本論の核心

 アメリカは戦後約六十年、第二次世界大戦の勝利の遺産をタテに日本に軍事基地を置き、アメリカの好みにあった諸政策を日本に高圧的に押しつけてきた。今の日本はそのアメリカの軍事的、経済的ヘゲモニーの下で機能しているのにすぎない。つまり日本はアメリカによって割り当てられた範囲の中で外交政策を立案、実施しており、その政策のほとんどが国際社会におけるアメリカの目標を達成させるための補完的な役割を果たしているにすぎないのだ。その意味では悲しいことだが、日本政府は先進民主主義国の中でも最も破滅的に不能な政府の一つだと言っていいだろう。  以上が、チャルマーズ・ジョンソン氏の日本論の核心である。それにしても、これまでの日本がアメリカの軍事的、経済的ヘゲモニーの下で機能していたにすぎないと言い切るのは、何とも見事という他はない。 私自身、遅々とした足取りながら、日本の「失われた十年」を研究しているが、戦後の日米関係にその謎を解く鍵があると考えているところである。

 ■チャルマーズ・ジョンソン氏の自民党・小泉論  

  1949年以降、政権の座についてきた自民党は腐敗し、無能化しているだけではない。遺物化しているのだ。かつて反共の橋頭堡としての役割も、官僚制支配の「公の表紙」としての役割も今や無用の長物になってしまった。 確かに2001年4月、自民党の一般党員たちが大ボスや幹部たちが推す総裁候補を蹴って、変人だがカリスマ性のある小泉純一郎氏を選んだときには、陳腐で古めかしい自民党に新しい息吹がでたのではないかと思わせた。だが、その小泉首相が実質よりスタイル、真の改革よりも口先だけの変革に終始し始めるやいなや国民はその見せ掛けのリーダーシップに再び失望してしまったというのが現状ではなかろうか。 こうしたことを言いながら、チャルマーズ・ジョンソン氏は、今日本が必要としているのは、アジアにおけるアメリカン・ヘゲモニーに終止符を打つ、本物の政治指導者が実権を握れるような政治システムを作り出し、再び産業政策を打ち出せる人物の登場を切望している。もちろん、チャルマーズ・ジョンソン氏は民主党とは明言していないが。 しかし、これは叶わぬ夢でしかない。この窮状を打開できるのは、私たち労働者の他にはいないのである。

 ■チャルマーズ・ジョソン氏の沖縄論

 なぜアメリカは沖縄に地上軍を駐留させておきたいのであろう。 その第一の理由はカネだ。日本政府は沖縄や田の日本国内に米海兵隊や他の部隊を駐留させているのに必要な経費を20億ドルも支払っている。これは他の「同盟国」に比べたら非常に気前のいい話だ。 沖縄は19世紀に日本に力ずくで併合された日本の本州とは異質の文化を持つ国家だった。その意味ではアメリカがプエリトリコやハワイを併合したのによく似ている。そうしたこともあって日本人は沖縄県民に対して、かつて植民地化した朝鮮や中国、台湾の人々に対して抱いているのと同じような根強い優越感を持っている。事実、アメリカはこうした点を踏まえて日本全土土地面積の1・6%しか満たない沖縄に75%の米軍基地を置くという差別的な政策をとってきた。 今ひとつ、米軍が沖縄を手放さない理由は、沖縄が好きだからだ。生活環境は米本土よりずっといい。すべての施設は米軍経営で、地元沖縄当局の管轄権は一切及ばない。これこそ米軍が沖縄から出てゆきたがらない大きなインセンティブ(刺激・要因)になっている。 また米軍の沖縄駐留は米兵による地元婦女子に対する暴行、傷害事件を生み、殺人事件まで起こしている。飲酒運転していた米兵たちのひき逃げ事件、環境汚染、住民たちの市民生活を絶え間なく妨害する戦闘機やヘリコプターの騒音などそのどれ一つとってみても、アメリカ市民だったら絶対に許されない行為である。 チャルマーズ・ジョンソン氏の沖縄論は、ここで読むことができるように極めて的確なものだといえる。ここには、一部の日本人の意識における沖縄に対する差別意識を明確に指摘している。沖縄の闘いが、なぜ全国化しないかは、私たち自身に突きつけられた問題でもある。

 ■チャルマーズ・ジョンソン氏の「沖縄はアジアの『ベルリンの壁』論」  

   沖縄はかつてのベルリンの壁によく似ている。それは日本および他の東アジア地域全体をアメリカが占領しているというシンボルである。もし沖縄が反植民地的反乱を起こしたら東アジアのアメリカン・パワーの牙城は音を立てて崩れ落ちるだろう。 ペンタゴンとその追従者である日本政府は間断なき圧力で沖縄県民の抵抗をくじいてきた。沖縄県民は日本の国会には何らの影響力もない。外務省はアメリカというパトロンのために沖縄県民を食い物にし続けてきた。 そうした中で沖縄県民はもはや圧制者への直接的な抵抗は諦め、日本政府から出来るだけカネを引き出そうという戦術に切り換えたかに見える。沖縄県民は県知事や重要な市の市長に親自民の人間を選んでいるし、国内最悪の失業率にあえぐ若者たちは本土政府からの助成金増額のみを望んでいるというのが現状なのだ。 そうした中で、沖縄問題を平和裡に解決する方法は、日本政府がアメリカに対し沖縄からの米軍撤退を「懇願」せざるを得ないような、大規模な大衆蜂起を誘発させる「事件」でも起こることだ。 チャルマーズ・ジョンソン氏は、右翼的な人物である。その人がここまで言うのである。 私たちはもっと大胆に、さらに大胆に闘っていく必要があるのではないだろうか。

 ■チャルマーズ・ジョンソン氏の結論

 日本政府のそうしたスタンスは中国や他のアジア諸国から賞賛されるだろうし、それこそ日本がついに成熟した独立民主主義国家となったことを示すシグナルにもなるだろう。 

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2008年2月28日 (木)

演奏の優劣

  あるブログにあるピアニストの演奏を絶賛し他のピアニストとは次元が違うくらいのことを書き込んだ。主催者からは懇切なご返事を頂いたが別な方にコメントのミスを指摘された。恐縮してお礼を言い感想を書いたら、その方にやんわりと窘められた。演奏の好みはアカショウビンに近いと思われたが一流と二流の比較ならともかく、一流演奏家間の演奏に優劣がつけられる筈もないというものだった。

 素人に好き嫌いの区別はあっても所詮素人は素人。一流演奏家の間の優劣などつけられる筈がない、というのがその方の御主張である。最初の返信ではこちらのミスを指摘されたのでお礼を述べた。次のコメントには前述のコメントが書かれていたのである。そのピアニストが誰かはさて措く。

 しかし一流演奏家の演奏の優劣はプロの批評家も、いわんや素人にもつけられないだろうか?

 アカショウビンのような自分でろくに楽器も演奏できない輩は恐れ多くも一流演奏家の演奏にこれまで散々優劣を付けて聴いてきた。その手始めは「矢切の渡し」。歌い手は、ちあきなおみに限る。他は歌の心を知らぬに始まり、北海道出身の最高の歌い手は中島みゆき、ナントカいう男は論外。クラシックではフルトヴェングラーの演奏は悪魔か神の如し、トスカニーニの録音など音楽でなく機械音楽レベル。いわんや、その衣鉢を継ぐカラヤンなど論外。まぁ、傍若無人、唯我独尊、神を恐れぬ所業の数々である。それを未だに反省しない。

 しかし音楽プロでもなし楽器や楽譜の知識があるでなし。ないない尽くしの音楽好きが再生音楽で安上がりに音楽に接してきた負債はどれくらいあるのかは不明である。

 少し反省もし、殊勝にも、しばらく再考してみよう。

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2008年2月19日 (火)

東洋的あるいは日本的

 パソコンの「暴走」で2月に入り書き込みが出来なくなってしまった。そのため急遽「アカショウビン日記」というのを新たに開設して記事を継続してきた。とりあえず、そちらに書いた記事を転載する。「~日記」のほうには別のテーマで継続していくつもり。ご関心の話題にはご遠慮なくコメントを頂きたい。いずれにしてもまた「アカショウビン通信」を継続できるようになりニフティさんのご担当諸氏に感謝。今後ともよろしくお願いします。

 少し言葉にこだわりたい。「文士」という言葉は今や死語だろうがアカショウビンが若い頃には未だかろうじて命脈を保っていた。それは、その言葉を体現していると思われる人たちが存命だったからだ。今、そういう人が生存しているのかどうか不明。かつても今も「絵士」という言葉はなかったのではないか。維新後の明治の画家達が目指した西洋画に対抗する日本画の成果のひとつは横山大観という画家にある。大観には「絵士」という風貌と語録と作品が体現されている。

 今年は横山大観没後50年という。先日、六本木の美術館で開催されている「没後50年 横山大観―新たなる伝説へ」で大観を観てきた。アカショウビンは大観が好きなのである。初期作品の水墨画が見事。墨絵の妙とでも言う境地に深く分け入っている感あり。雪舟伝とされる「四季山水図」の模写を観れば大観の画家としての伎倆は相当な高みにあり、明治33年、大観32歳の頃から3年間に描かれた「飛泉」(1900年頃)、「曳船」(1901年)、「夕立」(1902年)は伎倆的にも神韻の境地を感得する高みを描出している。それは「帰牧図」(1904年)へと継続する。幾つかの作品を観ていると大観は題名によって作品から音を響かせようと策しているのではないか、と思わされる。に因む十題のうちの「海潮四題」は春、夏、冬が出品され、夏が面白い。そこには岩礁にあたる波頭が音をたてているようにも思える。水墨で描いた峨々たる岩礁と波が岩に当り飛沫となる瞬間を捉えた大観の眼差しが動きを表現して見事。その岩を描く水墨は雪舟の「慧可断図」の岩にも通じる。入場チケットにも印刷されて今回の催しの呼び物にもなっている「或る日の太平洋」は構図の妙を納得した。同作品に類する他作品と比べて、こちらが力強く生き生きとして素晴らしい。

 「生々流転」(1923年)はさすがに圧巻だった。特に巻末の龍が昇天し波が逆巻き風雲が渦巻く様子が大いなる自然を映し大観が「東洋的」境地を超え独自の境地に達したように思えた。ところで、その「東洋的」と西洋からは特定されるであろう画風である。大観の初期の水墨画や中期の作品には本居宣長のような国学者からは漢心(からごころ・中国的)と一蹴される画題が散見される。大観らが目指した西洋画に対抗する日本画には水墨画に見られるように雪舟の頃から多分に中国的な画題が画風の基礎になっているのは明らかだ。それは「東洋的境地」とでもいう風情で現れている。今回は出典されてなかったが「隠棲」(1902年)という作品もそうだ。三十代の頃に描いた「飛泉」「曳引」「夕立」は正にその大観という画家の人生の中での到達点であるといってもよいのではなかろうか。

  ここで興味を掻き立てるのは天心や大観らが目指した日本画と、宣長が拒否した漢心と、掬い取ろうとした國の魂と言う物の実体=姿の異同である。傑作「生々流転」には明らかに漢心が現れているが志は「日本画」であり横山大観という一人の「絵士」の理想と気概であろう。その東洋的とも概観される内容はそういった概念を超えて大観にとって達成感のあった作品とも思われる。一方で「迷児」には孔子・老子・釈迦・キリストが描かれる。大観が当時の思想界・宗教界の混乱した状況を伝えた作品とされている。これなどは宣長が見れば顔を背け一蹴した作品ではないかと思われる。そこにはまた、そのような画題を平然と作品化する大観という個性に「愚鈍」とも「超越」とも勘ぐられるような器量さえ感じるが。「東洋的」と西洋から評される概念には「愚鈍」と「超越」への間に介在する不可解さとでもいうような物が在りはしないか?中国的な「大人」という理想的人間の境地には西洋人から見れば、それは「愚鈍」ともあるいは「超越」とも熟慮されかねない内容が混在しているのではないか?その後者は宣長が忌避したものではないか、という仮説は立てられないか?それはまたの機会に考察してみよう。

 繰り返すが、幾つかの作品には幻聴のように響く自然の音がある。林の葉擦れの音であり、粛々と降る雨の音であり、岩礁を削らんとする荒波の音である。それは大観が達成し得た境地とでもいうようなものではないかと思う。

 会場は盛況だった。ゆっくり鑑賞するゆとりはなかったが大観の眼差しを少しは感じ取れたのが収穫だった。

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