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2008年1月13日 (日)

もののあはれ考

 吉本・中沢対談で主題の一つになっている「もののあはれ」について少し。

 アカショウビンの理解では小林秀雄を「乗り超えて」吉本隆明(対談をお読みしてお元気なご様子に励まされることをお断りして敢えて固有名詞でお呼びさせていただく)の論考と思索は現在の思想界に刺激を与え続けているのだと思う。中沢氏や少し後の私たちの世代の一部は吉本隆明の思索と思考に少なくともアカショウビンは間歇的に刺激を受けてきた。

 小林秀雄が『本居宣長』(1977年)を書き上げて「もういいだろう」と筆をおき、5年後に『本居宣長 補記』を出したあと己の生と仕事に区切りをつけ、1983年に亡くなった。新潮4月号の追悼号には文芸界やジャーナリズムから多くの追悼文が寄せられた。他誌でも追悼文が掲載されたが吉本隆明の追悼文が氏らしく興味深かった。氏が小林の歳を越えてなお矍鑠としてマルクス・ヘーゲルに論及する膂力には感嘆するしかない。

 『本居宣長』のなかで小林が論じる「もののあはれ」は次の如くである。

 通説では、ものあはれの用例は、『土佐日記』にまで遡る。(中略)歌の心得ある人は、誰も納得すると彼(紀貫之)が信じた、歌に本来備わる一種の情趣である。(中略)当然、宣長は、ものあはれ論を書く起点として、これを選んだ。(『本居宣長』(上)新潮文庫版p133~)

 そして小林はこの“もののあはれ”という言葉が「当時ではもう誰も格別な注も払わなくなった、極く普通な言葉だったのである」として、それを取り上げて吟味すると「含蓄する意味合の豊かさに驚いた」と述べる。以降のくだりは小林の文章と宣長の説くところを熟読して再考、再々考していきたい。

 その契機としてアカショウビンの思考の励みともなるのはモーツァルトの音楽に聴ける響きである。中沢氏が言うキリスト教をも包み込む「もののあはれ」ではないかと啓示のように聴くのだが幻聴かもしれない。

 それはヴァイオリン・ソナタのアンダンテ楽章の幾つかである。一昨年の秋にヒラリー・ハーンという米国の若いヴァイオリニストのCDで聴いたK526のイ長調ソナタのアンダンテが素晴らしかった。「あたかもすべての善人に生存の苦い甘みを味わわせようと、父なる神が世界の一瞬間だけいっさいの運動を停止させたかのような、魂と芸術の均衡が達成されている」(アルフレート・アインシュタイン 浅井真男訳)と評された音楽である。

 モーツァルトが、すべての善人に味わわせようとした「生存の苦い甘み」。ある種の矛盾した言い方でしか言い表せられないもの。アインシュタインの指摘はアカショウビンの腑にも落ちる。それは「もののあはれ」でないか?ただ「もののあはれ」は生き物だけでなく存在するものすべて、またそれらの「関係性」をも含みこんでいるように思うが。それは確かに中沢氏が言うように「宗教」さえ包み込む日本文化特有ではない、人という生き物のみに内在する或る大きな「気分」なのかもしれない。しかし、それは概念として欧米の人々と共有できるものなのだろうか?中沢氏の提示した問題は風呂敷を広げすぎている感がしなくもないが追求してみる楽しみもありそうだ。

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