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2008年1月20日 (日)

永遠と一日

 昨年、ギリシアの映画監督テオ・アンゲロプロスの出世作「旅芸人の記録」を,、映画館ではない行政機関の企画上映の低料金でやっと観られたが前半は二日酔いで半分居眠り。それでも後半は作品に通底する尋常でない緊張感とギリシア現代史に対する監督の深い眼差しを了解した。

 4年前は当時の最新作「エレニの旅」(2004年)を観て感銘した。「旅芸人の記録」(1975年)からすると映像も鮮明で物語もわかりやすくなっている。しかし監督の根本思想は同じだ。自国の過酷な内戦の歴史事実に寄せる深い洞察と視線がそれを現している。

 「永遠と一日」(1998年)も都内の映画館で観たときは二日酔い。どうもアンゲロプロス作品とアカショウビンの出会いはアルコールが絡んでくる。

 先日ミクシイのなかでアンゲロプロスが大好きという若い女性が「永遠と一日」が好きで年に何回か観る作品だというのに刺激され、内容はうろ覚えの同作を彼女の感想を下敷きにしながらレンタル・ビデオで再確認した。感想から推察するその女性の感性は鋭敏で素晴らしく作品の急所の台詞を書き抜いてくれていた。それは作品に対する尋常でない偏愛がなせる技とも思えた。であればアカショウビンもアルコールを断ち熟視した。

 他作品にも共通する監督の深い眼差しはそこにも横溢している。現代ギリシアと19世紀の歴史がそこで交錯し作品に見事な立体構造を造形している。このような作品は我が国にあっただろうか。それは恐らく現在の映画人たちに根本的な対決を迫る映像のように思える。暮れから正月にかけて観た作品の中で2001年にガンで53歳という若さで逝った相米慎二監督の遺作「風花」がなかなかだった。アンゲロプロスと同じ、キャメラの「長回し」で鳴らした監督である。しかし同じ「長回し」といっても映像の裏にある何かが決定的に違う。何かとは、歴史に対する視線とでもいうものだ。相米作品にそれを求めるのは、ない物ねだりであるのは承知で言うのである。

 相米が「風花」で描いた北海道の荒涼とした自然に、アンゲロプロスが強烈に意識している国と民族の歴史に対する眼差しはない。それは現代に生きるワケありの若い男女の姿と心象風景がまったりと描かれているだけだ。この違いは何か?少し考えてみよう。

   ※参考までに来日時の記者会見での監督と記者との質疑応答を掲載させていただく。

 Q)作品の事に関した質問です。監督はギリシャのみならず、ヨーロッパ、あるいは世界に起きている根本的な問題を大変美しい映像にいつもまとめられて、いつも作品を作っていると思います。で、今回の作品でギリシャ系、アルバニア難民の少年と、病気で老いた老人の作家を主人公にされたのはどういう意図からなのでしょうか。

 アンゲロプロス監督(以下Aと略す)

 A)まず、主人公である作家の方からお話ししたいと思います。わたくしは、イタリアの有名な俳優、ジャン=マリア・ヴォロンテの最後の日々を一緒に過ごしました。つまり、彼は死んだ時、わたくしの前回の作品『ユリシーズの瞳』の撮影に入っていまして、最後の日々を私は一緒に撮ったのです。彼が死んでいるのを発見したのは私でした。その時、本当に衝撃を受けたし驚きました。しかし、その衝撃や驚きを超えて、1つの疑問が私の心の中に浮かび上がりました。あと1日しか生きられないとしたら、その日なにをするかという疑問です。そうやって人生最後の日に人は、どのように歩くのか、どのようにコーヒーを飲むのか、どんなことが頭の中に浮かび上がってくるのか。たった1日の時間の中に過去、現在、未来が収縮したときにどのようなことが起きるのかと考えたのです。子供の存在の方ですが、これから始まる人生を画にしています。終わりゆく人生の傍らに始まっていく人生があります。私は《死》についての映画を作るつもりはありませんでした。生きること人生についての映画を作りたいと思ったんです。そして《死》は《生》の一部です。1つの段階にすぎません。答えになっていましたでしょうか。今、ヨーロッパのいたる所の大都市で、このような子供たちを道で見かけます。それはアルバニアの難民の子供であったり、旧東欧諸国、ソ連から来た子供であったり、あるいは、ヨーロッパからもっと遠くパキスタンやイラク、イランの難民の子供であったり、そしてこの映画のような子供の仕事をしています。ストリート・チルドレンなんですけど、この映画の中に出てくる《クセニティス》という言葉がこの子供たちを定義しています。それは、どこにいてもよそ者である亡命者ということです。亡命という言葉には2つの意味があります。内的な亡命と外的な亡命です。作家の方は実際に他の国に亡命しているわけではありませんが、実存的な意味での亡命者です。これはたとえば、カミュが『異邦人』の登場人物の中で描いたような内的な亡命です。そして子供の方は実際に外国に難民としている外的な亡命です。このように2人の亡命者が同じ都市の中で出会い、言葉を交します。そして1つの人生が終わり、1つの人生が始まるのです。

 Q)ただいまの質問のお答えとも絡むんですけど、今回の映画、私的で、しかもポエティックで非常に素晴しく感銘を受けたんですが、いつもアンゲロプロスさんの作品は、常にポエティックでありながら、バックには社会意識といいますか歴史意識があって、それが非常にユニークなものを生みだしてると思うんです。それで、今回も見事な結び付きで感銘を受けましたが、そのことに絡めまして、その社会意識と歴史意識という点で、今、亡命とか難民とか出ましたけれど、国境の問題が常に作品にある。我々日本人は国境というのがどうもピンとこないんですが、まあ、監督の国では非常に切実な問題だと思うんです。で、ちょっと話がそれるんですけど、ヨーロッパの統合、EUというのが進んでますね。ヨーロッパが1つになろうとしている。そして、ユーロ単一通貨が発足してる。ギリシャとイギリスは参加していませんよね。で、そういったこともあって、常にそういう国境の問題を絡ませてやってらっしゃるアンゲロプロスさんに、ヨーロッパの問題、そういうことの、国境等の問題の考えをお聞かせ願えれば。近い将来などのヨーロッパなど。

 A)これはとても大問題で、とても長い分析が必要になってきます。はたして、1本の映画の記者会見の席で取り扱える問題かどうかわかりません。ご存じのように欧州問題は大問題です。ご存じのように単一通貨ユーロが導入されました。しかしこれは経済通貨統合ということであって、本当の欧州統合を意味していないんです。つまり、政治統合なしには欧州は1つになることができません。すなわち、欧州連合が政策を1つにし共通の理想を持った時、初めて欧州が統合したと言えると思います。欧州統合は単なる通貨統合ではありません。通貨統合にとどまりません。現在、欧州の統一は出来つつありますし、全ての者が本当の意味で欧州が統合されることを望んでいます。しかし、今のところまだ通貨統合の段階に留まっています。欧州が統合されつつあっても、実際は国境は増えつつあります。様々な紛争、バルカン半島の紛争のみならず、その他の国の歴史を見ても、紛争の根源にはかならず国境問題がありました。つまり、国境を越えて欧州全体を統合するということはまだ成されていない。解決策を見つけていない。見い出していないということです。ますます各国、各地の民族主義が台頭してきています。

 Q)今回の映画は、いつもアンゲロプロス監督の映画は日本でやらしていただいてますから拝見してる次第でありますが、1本の作品を20回観るというのは、まあ当り前のことなんですが、今までとのすごい違いは、観てる間中、すごい感動してしまいまして、それを人に伝える時にこんなに難しかったのは初めてなんですね。そういったことが日本だけのことなのか。聞いてみたいと思うのですがよろしいでしょうか?

 A)(ため息) 場内笑い

 今のは批評でもなく、批判でもなかったわけですね。感動してくれたことを嬉しく思います。また、私自身も撮影しながら感動を覚えていました。私にとってもこの映画を作ることは難しいことでした。というのは、普段私が取り扱ってる領域以外で映画を作るというのは初めてで、つまり、今回、わたくしは、私自身の中に入りこんで初めて映画を撮りました。自分自身の実存的な問題の中に入り、そして全般的な人間の条件について扱ったと言ってもいいでしょう。映画は人類に誕生して以来、全て人間に関わる問題を取り扱ってきました。生と死、そして時間の経過、愛、老い、若さ、孤独、そして亡命です。

 Q)映画に関して、なおかつ先ほどの質問にも関わるんですが、この映画自体がEURIMAGESというヨーロッパの映画基金の援助を受けて作られていて、クレジットにECも入っていて、映画の内容自体がギリシャ語で撮影されたギリシャ人の監督の個人的な映画であると同時に、ヨーロッパにおける国際スターであるブルーノ・ガンツが主演でヨーロッパ的な広がりをもった製作規模で、実際、ギリシャ、イタリア、フランス合作になっているわけですが、そのギリシャであるということの意味性と、ヨーロッパ性についての問題と、映画自体についてどうなんでしょうか?

 A)私の映画は完全にギリシャ映画であり、ギリシャ語を語り、ギリシャ語で撮影し、撮影もギリシャで行われたギリシャ映画です。そして外人を使うのはなぜかということになりますが、1人1人について説明したいと思います。まず、ブルーノ・ガンツですが、彼は私自身、以前から俳優としてとても好きで、起用したいと考えていました。彼がスイス系のドイツ人であるというのはここでは関わりないのです。かつて、私はマストロヤンニを使って映画を作っています。そして『ユリシーズの瞳』ではアメリカの俳優を主役に起用しました。私にとっては良い俳優と悪い俳優が存在するだけで、良い俳優と仕事をしたいと思っています。官能の世界でリビドーが存在するのであれば、映画的リビドーも存在するのです。私にとっての映画的リビドーとは、私に夢を見させてくれるような俳優を使って映画を作りたいということです。フランスの女優ですけど、フランスの女優を選んだのは、私の妻に似てるからだと思っております。(会場笑い)

 Q)『こうのとり、たちずさんで』『ユリシーズの瞳』それから今回の映像を拝見して、先の質問にもあったんですが、国境の問題をもう1度お伺いしたいのですが。これはたとえば、映像のテーマとして追及して今回その深まりがご本人として、お気に入りのシーンであったり、テーマの深まりがあったりするのか。それから象徴としての国境の理念が少しずつ変わりつつあるのかという点を、簡単に答えられるものではないと思いますがコメントをお願いいたします。

 A)国境の問題といっても、国境には様々な国境があります。地理的な国境、心理的な国境、そしてメタファー、人間としての国境です。しかし、それら全ての国境は限界を意味しています。この映画で国境、境界の問題が出てくるとするならば、それは生と死を分かつ国境の問題です。これは限界でもありますが、地理的な境界でも、人間としてのメタファーとしての境界でもありません。すなわち、生と死の間にある限界の問題です。そういった意味でこの映画は国境についての映画ではありますが、『こうのとり、たちずさんで』とは違います。『こうのとり~』の場合の国境は、地理的な国境と人間としてのメタファーの国境でした。私の最近の3作を考えますと、確かにこの3作は、国境の問題を扱っています。そして問題になっているのは、この国境、境界を超克する、越えていくということです。橋を架けて国境を越えていくのです。『こうのとり~』のラストシーンがたとえばそうでした。それは若い人々が、昇っていって電信柱を集めます。そして、彼方とのコミュニケーションを図ります。そして『ユリシーズの瞳』では、詩人である主人公ハーベイ・カイテルが越えること超克についての対話をします。今回の『永遠と一日』では、主人公が海に向かって3つの言葉を投げつけます。「コルフラ」私の花、「クセニティス」亡命者、そして「アルバギーニ」とても遅く、これを海に向かって投げます。この3つの言葉が1つの橋になって、限界、境界を越えることができるということです。彼が病院に行かないといった時から、言葉が彼と彼方を繋ぐ橋となって働いてくれるのです。それから、もう1つのテーマについて話しておこうと思います。この映画のはじめに子供たちが時間について話します。1人の子供が「時間がない」「時間とはなにか」という質問をします。そして時間についての話が始まるのですが、時間とはお爺さんの話によれば、砂浜でお手玉遊びをする子供、それが時間だ、時だと答えます。これはヘラクレイトスが時間についておこなった定義です。そしてこの映画の最後に、これは、はっきりとは言われてなくて、暗示されているだけですけれど、もう1つの古代ギリシャの哲学者の時間の定義でこの映画は終わっています。それは時間は存在しないということ。この映画のラストのカットでは3つの時間が同時に存在しています。この3つの次元、過去、現在、未来というのは、西洋哲学の中にある分類です。この3つの過去、現在、未来はこのカットの中に同時に存在しているのです。主人公である彼は現在にいながら過去を生き、そして未来へと呼びかけをしているのです。同じ平面で彼はこの3つの時間を生きているわけです。すなわち、この3つの次元は別々のものとして本当は存在していないのです。現在のみが存在しているのです。

  Q)同じカットのことなのですみませんが、同じ、ワンカット、ワンショットの中には今おしゃったことはエッセンスでしょうけど、その前に妻のアンナが出てきてますよね。それでアンナは消えていくんですけれども、そこには幻想のアンナも実際生きた姿で出てきているのでしょうか?

  A)アンナは他の所にも出てきています。確かにアンナは過去か ら現在そして未来へ呼びかけます。そうすることによって、未来からの呼びかけであって過去の呼びかけによって現在に存在しているのです。あの、アジア、仏教の考え方だと聞いたことがありますが、アジアでは違った時間の概念があると聞いたことがあります。過去、現在、未来という3分類の時間は存在せず、全てが現在である。現在しか存在しないという話を聞いたことがありますが、それは間違いでしょうか。(アカショウビン註:この問いに記者たちからの回答は公表されたこの記事には記載されていない)

  Q)プロデューサーのフィービーさんにお伺いしたいんですけれど。今回のアンゲロプロス監督のテーマを最初に聞かれてどのように思ったか。また、先ほどの女優さんの起用についてはご存じだったのか。映画人アンゲロプロスの魅力はどういったところにあるのか。よろしくお願いします。

 A)デリケートな問題なので、私の方から彼女に代わってお答えしたいと思います。というのは、彼女は単なるプロデューサーではなく私の妻だからです。この映画に彼女は反対していました。私がこの映画を作ってはいけないと言っていました。恐れていたんだと思います。確かに、一時この映画と私があまりに近く同じものになっていましたので、周りの人々や妻が、私自身が映画を生きている、私自身がこの映画のような人生最後の日々を生きている印象をもったのです。そうしたわけで、撮影は2回に分けて行われました。最初撮影を2週間行って、中断されました。私自身も怖かったのです。そして、中断して数ヵ月して、それから再開しました。この映画を映画として見る、テーマとして見るだけの距離をとれるようになってから再開したのです。映画を生きるのではなくて、映画を芸術的に消化できるようになるまで待ったんです。

 Q)せめてアンゲロプロス監督の魅力についてはフィービーさんにお伺いしたいんですけれど。

A)フィービー・エコノモプロス

  私はアンゲロプロスのプロデューサーの仕事をする前に、すでにこの仕事をしていました。つまり、すでに映画の職業についていたということです。実は『アレクサンダー大王』の頃から彼と一緒に仕事をするようになりました。とても彼に対して敬愛の念を抱いていましたし、そしてとてもユニークな作品を作るということもわかっていました。私にとって『アレクサンダー大王』はとても重要な作品でした。これほどギリシャの歴史、それから世界の歴史を濃密に扱える監督に出会えたということをとても幸福に思います。これが私の最初の感想です。そして彼の映画のプロデュースをするようになり、彼と一緒に仕事をするようになり、そして2人で一緒に子供を作りました。私が彼の中でいつも尊敬しているのは、日常のほのぼのとした問題を、永遠の普遍性たる問題に変えていく能力。また、その逆が出来るという能力。それでアンゲロプロスと生きることを確信しました。ですから、私は彼のことを1人の映画監督ではなく、クリエイターである、行動するクリエイターであると考えています。プロデューサーとしては、アンゲロプロスは一番やりにくい監督だと思います。そして、これほど困難を投げかける監督は他にいないだろうと想像しているのですが、プロデューサーとしてやりがいのある価値のある監督です。クリエイターと一緒に暮らすことが難しいということがおわかりいただけるでしょうか。お答えになってるかどうか。私は彼を敬愛しています。そして彼の傍らにいつもいようと努力しています。もう一つ言わせてください。この『永遠と一日』でアンゲロプロスはアンゲロプロス自身を超えたと私は考えています。彼の最高の作品だと思ってます。これほど美しく愛や生、そして人間の実存、個人的な愛についてこれまで取り上げた作品はなかったと思うのです。永遠に残るようなポエム、詩を作ったと思っております。

 Q)監督がこれまでお撮りになってきた映画の舞台、そこで今、虐殺がある。監督の心の中では不安なものがあると思うんですね。その辺をお聞かせ願いたいんですけれど。

  A)私は先ほど、なされつつある欧州統合と、増えていく国境の話をしました。今の質問はそのことにも関係があると思います。ご存じのようにいろいろな国で、様々な国境の問題が起こっています。当然、ギリシャはバルカン半島に位置していますから、現在紛争が起きてるところに近い所にあるわけです。もしも、紛争が最悪の結果になり、戦争が勃発したならば、ギリシャは最初に直接の被害を受ける国になるでしょう。私個人的にも、ギリシャの人々も個人個人、当事者として感じております。私の国、ギリシャではこういった問題について適切な正しい立場をとりました。すなわち、この問題解決には武力を使うべきではなく、政治的解決策を取るべきだということです。戦争は次の戦争を呼び、憎悪はまた次の憎悪を呼びます。血が血を呼ぶのです。

 Q)この映画で少年の笑顔が素晴らしくて、この映画に希望のようなものを与えていると思うのですが、最初にみせる笑顔も素晴らしかった。あれはどのように演出なさったのか。それから2つ目の質問ですが、私、イタリアの『情事』という映画で、サンドラという男性が島で行方不明になったアンナという女性を探している場面があるんですけれど、『永遠と一日』の中にそれを思わせるシーンがあるのは、アントニオーニ監督、トニーノ・グエッラ(イタリアの脚本家)に対するオマージュなのか、それとも何か『情事』に対する答えだったのでしょうか?

 A)私はアントニオーニともトニーノ・グエッラとも親しくしていますけれど、オマージュを捧げるという気持ちはありませんでした。オマージュを捧げたとすれば、それは『こうのとり、たちずさんで』の中で、アントニオーニ監督に非常にハッキリとしたオマージュを行っています。ジャンヌ・モローとマストロヤンニが30年ぶりに再び出会うシーンでそしてジャンヌ・モローが、彼ではないというんです。これはアントニオーニの『夜、ラノッテ』に対するオマージュです。『こうのとり、たちずさんで』を上映した時、すでにアントニオーニ監督は病気でしたが、来てくださって、そしてこのシーンが始まった時、彼は涙を流し始めました。あの最後に付け加えたいんですけれど、『永遠と一日』の幾つかのテーマのなかで1つ言わなかったこと、忘れていたことがあります。それはブルーノ・ガンツが母親にモノローグを語るところです。母親に対して、なぜ私たちは愛することが学べなかったか、愛することができなかったのかと。どのように愛せばいいか。どうしてわからなかったのかということです。つまりは不在です。実際に私の娘がある夜泣き出してこう言いました。パパはいつもいない。そして家にいるときもパパは不在である。私たちのことを考えてくれていない。ここには本当にはいないと言って泣いたのです。この映画のもう1つのテーマは不在なんです。今は不在ではなく、ここに来てくださいましてありがとうございました。

 (了)

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コメント

死は生の一部であるというのはひとつの人生観だと思うが、果たして頭でわかっていても生身の人間の意識や精神はそれを納得できるのだろうか。

死への自由などというのは言葉としては矛盾だと思うし、映像化という客観化の中で監督自身の生身の死生観が曖昧になっているのではないだろうか。
積み重ねる百の説明よりひとつの直感によって、物事を感知するというやり方もあります。それは取りも直さず日本人の体得したやり方ではなかったか。

映像のリアリズムにあれこれ解説を加える監督のコメントは本来不必要なものと思います。
それは芸術作品として鑑賞に堪え得るかどうにまかせればよいと思います。

投稿: スタボロ | 2008年1月23日 (水) 午後 04時01分

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