« 永遠と一日 | トップページ | もののあはれ考(続) »

2008年1月25日 (金)

永遠と一日(続)

 スタボロさんから前記事にコメントを頂いたのでご返事とアカショウビンの考えをもお示ししたい。

>死は生の一部であるというのはひとつの人生観だと思うが、果たして頭でわかっていても生身の人間の意識や精神はそれを納得できるのだろうか。

 アンゲロプロス監督も、それを「頭で」わかってコメントしているのではないと思います。生身の存在は現実の中で四苦八苦しているわけですから、そんな暢気なことは自作に対して求められるコメントとしてでなければ言わないでしょう。しかし自作を振り返る中で自身の心身状態や友人の俳優の死に遭遇し、そのようにコメントしたというのは率直な心境を吐露したものとアカショウビンは了解しました。

>死への自由などというのは言葉としては矛盾だと思うし、映像化という客観化の中で監督自身の生身の死生観が曖昧になっているのではないだろうか。

 矛盾として発言しなければならないところに記者会見の現実性があるのではないかと思います。自身の経験を矛盾なく語れるほどテオ・アンゲロプロスほどの監督といえど用意周到ではないでしょう。生身の死生観が明確になっている、ということはどういう事なんでしょうか?それは死ぬ覚悟を決めているということでしょうか。それぞれの文化の中で死生観というものがあります。アカショウビンなりにもあります。しかしそれは、それほど明確な事ではないのではないでしょうか?ですからアンゲロプロスも異文化の国に来て、こちらの時間観を記者たちに尋ねたのだと思います。しかしそれは互いがチグハグな問答になり短い時間で収拾がつく事柄とも思えません。

>積み重ねる百の説明よりひとつの直感によって、物事を感知するというやり方もあります。それは取りも直さず日本人の体得したやり方ではなかったか。

 日本人もいろいろですからそれを集約することは難しいのではないでしょうか?欧米人が求めているのは禅的な悟りかもしれませんがそれが日本人を代表するものとも思われません。それをアカショウビンなりに「もののあはれ」と愚考しても、それは日本の歴史の中で、たかだか千数百年の間の事で析出された概念のようなものです。他のブログで「もののあはれ」という概念は外国人にも確かにあるというコメントもいただきました。日本の「もののあはれ」にしても本居宣長ら江戸期の学者の中で受け継がれたものです。それを日本人というように括る危険性もなしとしないのは先の記事で紹介した吉本隆明さんの嫌悪感となって未だに論議の的になるのはご承知の通りです。アカショウビンも小林秀雄や保田與重郎を読みながらそれは愚考している、このブログの通奏低音であります。

>映像のリアリズムにあれこれ解説を加える監督のコメントは本来不必要なものと思います。それは芸術作品として鑑賞に堪え得るかどうにまかせればよいと思います。

 おっしゃる通りと思います。アンゲロプロスも短時間にコメントを求められて正直に回答したにすぎないのではないでしょうか。それでなくとも作品の創作過程を知りたがるのは第三者の常ですから。

 それにしてもアンゲロプロス監督の視線に寄り添っていると独特の視角やギリシアの近代史に関心が向かざるをえないのは正直なところです。映画に限らず芸術作品の持つ力というのは、そういうものではないでしょうか?振り返って我が日本を見ると、それは何かと思わざるを得ません。少なくとも昨今の映画作品で、そういう思考に赴かせる作品に出会うのは至難のような気がしますがアカショウビンの狭い見聞にすぎません。

  先日発表された毎日映画コンクールの日本映画大賞は周防正行監督の「それでもボクはやっていない」だったようですが、現実の日本を巧みに描いていても裁判劇としては少しお寒い感じもしました。このジャンルは欧米の方が一歩も二歩も先んじているように思いましたが如何でしょうか?

|

« 永遠と一日 | トップページ | もののあはれ考(続) »

コメント

こんにちは。

監督の言葉の中で‘死は生の一部である’という言い方に疑問を持ちました。
このひとは死後の世界でも信じているのかなと思いました。
あるいは死は生の中のいちイベントなのかとも思いました。子々孫々の繋がりをいっているのなら、表現の仕方がわかりにくい。

私は日本人の直感イコールもののあわれなどとは思っていません。
またものあわれは外国人でも理解できるという言説はあまりに検証吟味があいまいではありませんか。一つの例外をひとつの国民の文化美意識理解とイコールとはならないと思います。

分析と統合にはつねに厳しい概念検証が必要だと思います。
西田幾多郎の強靭な思索体験など好個の事例と思います。

投稿: スタボロ | 2008年1月26日 (土) 午後 02時47分

イエンスさん、こんばんは。
 コメントありがとうございます。アカショウビンも愚考を重ねながらご意見に回答したいと思います。

>監督の言葉の中で‘死は生の一部である’という言い方に疑問を持ちました。このひとは死後の世界でも信じているのかなと思いました。あるいは死は生の中のいちイベントなのかとも思いました。子々孫々の繋がりをいっているのなら、表現の仕方がわかりにくい。

 ★会見のやりとりの中で監督の奥様が撮影の経緯を説明している箇所があります。それは監督自身が体調が良くなかったのでしょう。制作の断念を奨め監督もそれを受け入れ中断したと語っておられます。しかし、それから間を措いて再開した時にアンゲロプロスは作品から距離をおく事が出来て完成させた、という説明でした。
 作品を熟視すればアンゲロプロスの分身とも思われるブルーノ・ガンツの所作・会話のひとつひとつに監督のメッセージが伝わってくるとは思われませんか?それは死を予告され覚悟した人間がどのように少ない時間を過ごすか、という監督の自問が表現されています。アカショウビンにはアンゲロプロスの試行錯誤と熟慮が伝わってきました。19世紀のギリシアの詩人のエピソードを挿入することで作品に奥行きが構成されています。亡くなった夫人との回想シーンもギリシアの結婚式の様子を伝えて興味深く見ました。そこでは歴史に翻弄されながらも脈々と生き続ける人間の姿が見て取れます。会見のコメントとしてわかりにくいとしても、映像はそれを良く伝えていると思います。

>私は日本人の直感イコールもののあわれなどとは思っていません。

 ★もちろん私もそう言っているわけではありません。日本文化の底流として注目される文化概念として、それにこだわり続けた宣長や折口信夫が、そこに見い出した概念は単なる観念でなく構造化されたものである、と吉本・中沢対談で中沢氏が述べられている通りでしょう。それはかつてジャック・ラカンが「無意識は言語のように構造化されている」と説いた言説を踏まえているのは見やすいことと思われます。それならアカショウビンも同意します。その前提はともかく中沢氏の言説にその含みがあるならブログにも書いた通りです。

>またものあわれは外国人でも理解できるという言説はあまりに検証吟味があいまいではありませんか。

 ★それは米国で生活された美術家のワコウさんが様々な人種の方々と交流された経験を踏まえておっしゃっている事です。それは高名なインテリたちの言説とは異なりますが、ご自分のご経験を通してお伝え頂いたことを曖昧と断じる事はできないでしょう。その検証吟味は我が国の「もののあはれ」の検証と平行して進めなければならない作業だとアカショウビンは了解しています。

 >一つの例外をひとつの国民の文化美意識理解とイコールとはならないと思います。

 ★一つの「例外」とは宣長、折口、小林秀雄、保田與重郎、中沢氏ら、加えて埴谷雄高はじめ近代文学の同人たち、竹内 好、丸山眞男、加藤周一さん、鶴見俊輔さんらの言説を含めて検討しなければならない事と承知しております。

>分析と統合にはつねに厳しい概念検証が必要だと思います。西田幾多郎の強靭な思索体験など好個の事例と思います。

 ★おっしゃる通りです。哲学的な領域では独仏英米哲学も射程に入れなければなりません。アカショウビンはこのブログでハイデガー、ヤスパース、カント、ヘーゲル、ニーチェ、デリダ、フーコー、レヴィナスも読み直し、未読の著作も読みながら視界を拡げ愚考を重ねていくつもりです。

投稿: アカショウビン | 2008年1月28日 (月) 午前 12時46分

もののあわれについては、高名なインテリたちの言説は、私はよく知りませんが、それこそ無意識の中に染み込んだ感性が『枕草子』『源氏』『平家』はたまた『奥の細道』などに感応するものが外国人に培われているものでしょうか。

私が曖昧と云ったのは、世界の中でもまことに特殊な文化美意識を持つ日本人の感性が、いち日本人の外国人交流から理解されていると判断することを指しています。
はたして、もののあわれ、無常観、漂泊感などが日本に生まれ育った経験のないものにどれほど理解されるのかということです。

投稿: スタボロ | 2008年1月28日 (月) 午前 04時40分

 スタボロさん、ご返信致します。

「もののあはれ」については先に引用した吉本・中沢対談で中沢氏が「ヨーロッパの宗教は、巨大な『もののあはれ』をベースにした、何とも名づけようのない人類的なものの一部分でしかない。~」という箇所の理解が行き違いの元になっているように思います。「人類的なもの」という点で、それは洋の東西を問わないものです。
 話が噛み合わないのは、「日本文学史」で日本的なものと解されている「もののあはれ」と和歌史を通し「源氏」に宣長が読み取る「もののあはれ」の違いから生じるものでしょう。小林は「本居宣長」のなかで宣長の「もののあはれ」の説明を次のように引用しています。
 「あはれと言う言葉は、様々に言い方は変ってきたが、その意はみな同じことで、見る物、聞く事、為す事に人が出会い、関係するとき情(ココロ)の深く感ずることをいう。俗には、悲哀だけをあはれと理解する場合もあるが、そうではない。すべて、嬉しいとき、楽しいとき、悲しいとき、恋しいとき、情(ココロ)に感ずることは、みなあはれなのだ。であるから、面白いことも可笑しいことも、あはれといえることが多い」(「石上私淑言、巻一)。(「本居宣長」[上]p151。引用している宣長の原文を現代文に訳した)

 この「定義」からすると宣長が「源氏」から読みとった「もののあはれ」は日本独特のものではなく人間なら誰でも看取する感情ということになります。

 ただ和歌や随筆、小説を通した「文学史」のうえで「もののあはれ」を理解しようとするとき、それが我が国独特とされるのは仕方のないところかもしれません。

 また小林は宣長の「もののあはれ」を更に一歩踏み込んで次のように述べているところも興味深いところです。
 
 彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。(「本居宣長」[上]p153)

 このように見てくると誤解を恐れずに言えば「ものあはれ」とは引用した文章の前段で宣長が述べるように、情(ココロ)の感(ウゴ)きすべて、とも言えます。そうであるなら、それは日本人であろうが外国人であろうが人間であれば等しく持つ感情とも理解できるのではないでしょうか?

>世界の中でもまことに特殊な文化美意識を持つ日本人の感性

 おっしゃるように虫の音に対する日本人と外国人の受け取りかたの違いは典型的な相違として挙げることができます。しかし宣長が「源氏」から読み取った思想と宣長の思想は小林などを通して詳細に検証していかねばなりません。
 「無常観」「漂白感」の場合は宗教的な影響が大きくなります。「もののあはれ」にもそれを読み取ることはできるでしょうが、それは今後の課題ということにしたいと思います。

投稿: アカショウビン | 2008年1月29日 (火) 午後 02時37分

もののあわれを、一足飛びに人間誰しもが感じるこころの動きというグローバルな普遍化へと解消してしまう捕らえ方には、歴史も民族も文化をも忘れ果ててしまう日本人特有のめでたさを感じます。

もののあわれを知る知り方には日本人独特の感性の積み重ねるがあったはずです。
それを一足飛びに人類普遍の感じ方などというに及んでは、日本文化の中で培われた日本人独特の感性を追究する意味はなくなってしまうのではないですか。

たとえば、‘しずけさや岩にしみいる蝉のこえ’
この感性は誰もが感受できるものなのでしょうか。

投稿: スタボロ | 2008年1月29日 (火) 午後 04時18分

>もののあわれを、一足飛びに人間誰しもが感じるこころの動きというグローバルな普遍化へと解消してしまう捕らえ方

 普遍化へ解消してしまうのではなく、宣長は「源氏」という作品が読者を惹きつける「思想」を「もののあはれ」と読み取ったということです。それは一足飛びにでもなく、グローバルな普遍化へでもなく、宣長という読み手、人間が、「源氏」を面白く深く読むうちに了解した、ということでしょう。

>もののあわれを知る知り方には日本人独特の感性の積み重ねがあったはずです。

 おっしゃる通りです。しかし、それが「日本人」にしか理解できないものなのか、もしかしたら、それは民族的にでなく、外国人でも或る人たちには理解できるものなのかもしれません。「日本人特有のめでたさ」として呆れ捨ておくのではなく、詳細に検証してみるべきでしょう。

‘しずけさや岩にしみいる蝉のこえ’この感性は現在では多くの「日本人」にも理解できないものになっているのではないでしょうか。

投稿: | 2008年1月29日 (火) 午後 10時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/17834916

この記事へのトラックバック一覧です: 永遠と一日(続):

« 永遠と一日 | トップページ | もののあはれ考(続) »