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2007年12月23日 (日)

視線あるいは眼差し(続き)

 NHKテレビで今年95歳で亡くなられた日本画家・髙山辰雄の作品を紹介しているのを面白く観た。画家と年齢の近い、現在もご壮健の医師・日野原重明氏がインタビューに答えて作品の感想を述べておられるのが興味深い。曰く、その作品を見ていると海の底に沈んでいくような感じになる。

 画家自身は生前のインタビューで「私は個性という言葉は好きではない。普遍的な命のつながりを、どこにでもある家族のように共通のものを通じて知りたい(取意)」と述べる。

 紹介される晩年の作品は長寿を生きる画家ならではの視線の清澄さが表現されている。アカショウビンは先にも言及した堀 文子さんの作品に見られる視線ともそれは共通すると感じる。堀さんは植物や蜘蛛、ミジンコを凝視し作品に仕上げる。一方、髙山の視線は視角には捉えられない同じ胎内にいて赤子を見つめる二人の女性という幻想的な構図の作品が素晴らしい。意表を突かれる構図である。それは死を意識した画家の精神の幻視とも、生命の誕生の神秘を画家自身の経験を濾過して現したもののようにも思える。画家の精神と眼差しはアカショウビンの現在と過去そして未来を行き来する思考を督促するようでもある。

 70歳を過ぎてよく訪れたという故郷の大分での作品は画家の心境の境地を推察したくなる衝動を駆る。故郷の景色と空気に共振した画家が描く鳳凰は画家の精神が現象化したものとも見える。連れ合いを労わる鳳凰の振り返る屏風画の構図の中に描かれる人の姿は大自然の中に存在する点景である。画家の心境と境地の中でヒトは自然の中の極小さな存在である。

 「生きている限り生命の奥底にあるものを描きたい」という画家の言葉は北斎の画狂とも通底しているだろう。「生きている間に何かを知りたいけどねぇ」と語る姿は画家の率直な人柄を表して興味ぶかい。

 晩年に初めて描いた自画像の茫洋な画像はヒトという生き物の本質を射抜いているようにも思う。木炭で描いた柔らかい画風に自画像とはいえ全身を描き顔の判別は朧になっている作品は、「迷っている自分の姿が表現されていればそれでよい」という述懐と呼応し含蓄に富む。

 画家の視線と作品の視角、視界はヒトという存在の不可思議を現して興味尽きない。

  先にも記したが、あるご縁で作品を拝見させて頂いた美術家が富士山に対し北斎作品を挙げて述べる感想に刺激されて「冨嶽三十六景」も見直している。また晩年の北斎の奇想もアカショウビンの呆けた日常に痛棒を食らわす効果を齎すのである。

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