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2007年12月17日 (月)

視線・眼差しへの註釈

 先の書き込みへの注釈ともなる言説だと思うので翻訳者には失礼を詫びながら引用しておく。著者は「われわれの哲学することの一つの根本気分の呼び覚まし」という主題で私たちが経験する「退屈」という状態を考察する。その中でドイツ語の「Sicht=見る・視角・視野」という語を含む三つの語を用いて次のように考察していく。前稿の内容を更に一歩進めて考えるうえで参考になるのではないかと思い写しておく。

 視点(Hinsicht)、顧慮(RÜcksicht)、意図(Absicht)というこの三つの視(Sicht) 、これは、単なる知覚の視、あるいは理論的もしくは何かのんびりした受容などの場合の視ではなく、現有のあらゆるすることなすことのための視なのである。視のこの一挙に-全体なるもの、この中で現有は絶えず動いているのであるが、これは――三つのうちのどれか一つが遮られていたり、ぼやけていて、他の一つが一面的に突出しているというようなことはあるかもしれないが――この三つの視の一挙一丸は現在、既有、将来へと分かれて行くものなのである。この三つの視は三つ別々に並んであるわけではなくて、これは根源的に一つで、時の地平そのものという形で単一である。それは根源的に一にして統一的なる時の全-地平である。(ハイデッガー「形而上学の根本諸概念」 創文社 川原栄峰・セヴェレン・ミュラー訳 p242~243)。

  ただしゴシックの文字は翻訳では縦書きの文章の右脇に読点となっている。また現有(dasein)は一般に「現存在」と訳されている語である。

 難解で不完全な「存在と時間」という後世には〝問題作〟と見なされた著書を世に出した後のこれは講義録で本人も自覚していた著作の不完全さを補填する説明が随所に見られてありがたい。日本語と異なる言語で思考・思索する現象学的解釈学者の足跡を日本語で読み続けている者としては先の美術作品との出会いで得た新鮮な体験を少しでも理解しようとすると、このような言説を引き合いに出して考察していくのがタチであることを弁解しご海容を乞い願う。

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