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2007年12月13日 (木)

視線あるいは眼差し

 先日、ミクシイというSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のご縁でメールも交換させて頂いている美術家の方が作品を出品されるというので北浦和の美術館へ行ってきた。アカショウビンは音楽以上に美術や絵画には門外漢である。ごく平凡な音楽好き絵画好きだ。したがって音楽コンサートやリサイタル、先日のフェルメールも個人的に好きな作品が展示されている展覧会にしか足を運ぶことはない。それでも初めて訪れた和風庭園などもある美術館周辺の空間は久しぶりに気持よく時間を過ごせた。作品が展示されている地下の会場には様々な美術家たちが作品を展示していた。それは門外漢のアカショウビンには殆ど未知な人ばかりだ。しかし、そこで観た現代美術の現在には少なからず関心を刺激された。

 その方の作品は通常の美術展のように会場の中ではなく、正確に言えば会場の透明なガラス壁から直ぐそこ、だから近くの扉から外に出れば直に触れられるような、建物と外界が触れ合う場所に展示されていた。他の日には建物の外の別な広い場所にも展示されたようだ。七夕の短冊を大きくして天女が着ていたという「羽衣」のような、膨大なトレーシング・ペーパーを用い多彩な色で模様が自在に描かれている。それは自然を抽象的に表現したようでもあるし作者の心象が反映されたもののようでもある。扉から外へ出た。作品が風で時にサラサラと音を立てる。作品の「内側」にも入り込んでみた。すると作品は壁に展示された通常の絵画作品とは異なる構造を持ち意想外な視角を提供する。独特の空間には素材のトレーシング・ペーパーを通過して差し込む陽の光と翳が人工に自然の恵みを溶け込ませ軽やかで新鮮な効果をあげていた。

 その日は午前中にテレビで堀 文子さんという画家のドキュメンタリー番組もやっていた。今年6月に日本橋の百貨店で作品群に接し感銘したことは、このブログにも書いた。そこで感銘したのは画家の視線の深さというものだった。画家や美術に携わる人々は視線あるいは眼差しと視角を通じて「世界」を視ている人である。表現される「作品」は見えないものを視て、それを表現する。優れた表現者は異界との媒介者でもあるだろう。そうでなくともその世界の人々は芸の力で私たちの日常に揺さぶりをかけてくる人々だ。その送り手の才覚がないアカショウビンは「作品」や「芸」に刺激され何事かの感想を述べるだけである。

 作者の視線あるいは眼差しと作品空間は、「人間的な意味の以前にある、そこから意味が生まれてくるような空間へと注がれた眼差し」(@小林康夫氏)であろう。

 「さまざまな不連続線や力線、垂直線、さらには空白のタブロー、奇妙な立体といった殆ど幾何学的な対象空間を見つめる眼差しは、意味以前というその位相に正確に対応して、それ自身、まだ身体を持たないような眼差し」(同)、という別な人物の思想の「解説」は、また驚くほどこの作品と作者の説明にもなっているではないか。

 それは美術館という閉鎖的な空間から抜け出て外の空間と交わることで息をする作品である。それが新鮮だった。そのような手法が新しいものか古いものか門外漢のアカショウビンには不明だが、作品が外界と交わり息をしているという経験は得がたいものだった。

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