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2007年12月24日 (月)

聖夜考

 仏教徒は、きょう、明日の異教の祭を如何に過ごすのだろうか。苦虫を噛み潰したようにか、素知らぬ風を装い世間と楽しくだろうか。「私は無宗教」というコメントが蔓延する多くの「日本人」は八百万の神々と異教の神が摩訶不思議に同居している「神国日本」で若者たちや国民は朗らかに快活に2日間を過ごし暮れから正月を迎えるのであろう。そんな野暮なことを言う輩の棲む場所は現在のこの国に限りなく少なくなっているのかもしれない。

 世界中のキリスト教徒の祝祭日を異教の輩(ともがら)も楽しむという状況が現在の先進国という国家群の国民である事をテレビや新聞等、街中の装飾、企業の収益拡大の手段としてそこここで見聞するときにアカショウビンのような偏屈でへそ曲がりの輩は次のような言説を面白く読む。それは1960年にフランスでユダヤ人教師として教壇に立つユダヤ人哲学者の言動に言及したものである。

 ---教師は当時のフランスのユダヤ共同体のゆくえをとても不安なまなざしで見つめていた。当時は第二次世界大戦が終結しまだ15年しか経っていない。ナチに加担してユダヤ人虐殺に手を貸した戦争犯罪人のフランス人たちはいつのまにか素知らぬ顔で市民暮らしをしている。ソ連からはスターリンによるユダヤ人粛清の情報が断片的に入ってきている。そのような薄氷を踏むような時代に、ユダヤ人をどうやって再統合するのかと教師は腐心する。

 それはまた敗戦後の我が国の伝統の継承に不安を抱く人々の言説とも共鳴しているかもしれない。たとえば保守の論陣を張った福田恆存や論壇人からは巫と見なされた保田與重郎の論説と逆説的に呼応するだろう。

---ユダヤの同胞たちは欧米社会へ同化しユダヤ教の伝統を棄てつつある。彼らをどうやってユダヤ教の圏域に「引き止める」かというのが教師の抱える難問である。ユダヤの若者たちはヘブライ語をもう学習しようとしない。それは苦労してヘブライ語を習得しても、その語学力をもってアクセスできるテクストには「意味のわからない時代遅れの世迷い言」しか書かれていないと広く同化ユダヤ人たちが信じていたからである。

 それはまさしく戦後教育が歴史的仮名遣いを棄却することで白鳳・天平・平安の日本の歴史と文化から限りなく離れていく過程を危惧する福田や保田の言説とも呼応するだろう。

---教師は言う。そこには恐るべき叡智の言葉が書かれている、と。イスラエル高等師範学校の校長として、ヘブライ語とフランス語のバイリンガルの教師を育てて、中近東や北アフリカに派遣することを本務としていた彼は、フランスの若者たちの前で、「ヘブライ語ができると恐るべき叡智にアクセスできる」ということを理解させることを思想的急務としていた。そのためには、「ヘブライ語ができたせいで、私は『恐るべき叡智』に現にアクセスすることができた」という事実を、今ここで身を以て示さなければならない。60年代の彼の仕事は、そうやって考えると実はきわめて選択的な読者層をターゲットにしていた書き物だったことが知れるのである。

 この教師が誰であるかはさておき、このような危機感は我が国の思想家や宗教家にどのように現在しているだろうか?また、その歴史的視界はユダヤ社会の歴史と我が国の歴史と、現在という時空間に於いてどのように交錯するのか。

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