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2007年11月 1日 (木)

現実存在とは?

 

この世に棲む日々に納得しておきたい欲動に駆られるのがヒトが生きているということはどういうことか、という疑問である。まぁ、通常はそんなことは考えない。しかしネットの仮想空間で知る他者の思考には刺激・触発されることも多い。22歳の女子学生が読む哲学書を読み直し彼女がこれからどういう人生を歩むのか思い描くのは楽しみではある。彼女は恐らく次のような文章と格闘しているのである。

「事物世界の圏域においては、いかに完全な知覚といっても、絶対的な或るものを与えないということがぞくしている。このことと本質的に関連するが、たとえどれほど経験が遠くまでおよんだにせよ、どのような経験についても、その所与が、所与の生身のありありとした自己現在についての不断の意識にもかかわらず現実存在しないという可能性が残されている」。

これは20世紀に展開された現象学の急所といってもよい思考だろう。アカショウビンは西洋の哲学史は、ここに新たな展開を見せたと思う。それは仏教哲学で展開される「一切空」という断言と呼応する。

私たちが生きる世界での経験の「所与」が現実存在しない可能性とは何か?

この「現実」世界において「人間」は確かに生息し、経験は現実の「経過」なのではないか?それが「現実存在しないという可能性」とは何か?ある有識者は「本に書かれたものは死んだ」ものと述べる。しかし果たしてそうか?経済学がもっとも学ぶに値する学問で「哲学」は何と曖昧でいい加減な学問かと吐き棄てる若い経済学徒の本音と思しき感想に同意するわけにはいかない。それは若い女学生が上のような文章に立ち止まり思索を重ねることにアカショウビンも共振するからである。

同じ人間の日常生活に日本人はアフリカや南米や北半球の過酷な環境に生きる環境からすればユートピアのような環境に生息している。そこで生きる時間の違いをどのように自覚し生きるか、という問いは少なくともアカショウビンの個人的に切実な問いなのである。

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