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2007年11月20日 (火)

ふたつの「謝肉祭」

 きのう、新宿へ出て映画を見る前に中古CD・レコードを物色。レコードでシューマンの「謝肉祭」を2枚購入した。イタリアのベネディッティ・ミケランジェリというピアニストとアルフレッド・コルトーというその世界では神格化されている名人の録音である。

 アカショウビンはコルトーのほうが面白かった。しかし一方でミケランジェリのレコードの解説に引用されていたミケランジェリのコメントも面白かった。それは、そのレコードの2年前の1973年のインタビューに答えたものだ。

 「演奏をレコードにすることは愉しいですか?」という質問に、次のように答えている。

 「私はしんからそれ(レコーディング)が嫌いだ。それでもやっているけどね。必ずしもそれに熱中しているわけじゃないんだ」と。(三浦惇史訳)

 「謝肉祭」を買ったのは最近あれこれ書き込んでいるミクシイで好事家たちの書き込みに触発されたせいである。ミケランジェリのライブの「謝肉祭」が、その後のスタジオ録音のものより「凄い」という感想に刺激されたからだ。

 安さに飛びついて買ったミケランジェリのレコードは後で探したらかつて買っていたレコードであった!まぁ、それはよいとしてコルトーは面白かった。その打鍵はアカショウビンの偏愛するエリー・ナイのピアニズムに似る。叩きつけるような打鍵は時に耳に刺さるが作品の本質に切り込む演奏は確かに「凄み」と形容できるものである。

 あれこれ聴いてきてコルトーの面白さを、やっとこの歳になって楽しむことが出来たと思うことは、人間の経験というものは回り道をしながらも、それが効率的ではなくとも新鮮な出会いとして言祝がれるものであることに思い至る。

 ミクシイではグレン・グールドについて書き込まれた人に刺激されてグールドのコンサート嫌いとスタジオ録音への固執に関してナマ演奏にこだわったフルトヴェングラーの演奏観に思いを致しミケランジェリというピアニストがフルトヴェングラー派であることも確認した。

 コルトーのレコードで解説を書いている諸井 誠氏は「謝肉祭」のレコードを何十枚も「聴き比べたあげく、いつも帰りつくのがコルトーだとはどうしたことか」と自問している。それにアカショウビンは共感する。諸井氏のように何十枚でなくミケンランジェリと聴き比べただけであるが。

 生演奏ではない再生音楽を聴く楽しみとは、かくの如しである。それは或る意味で不幸な事だろうがコピー社会に生存する者の現状でもある。グールドの弾くバッハ録音を東洋の島国で聴ける幸は仮象に弄ばれている倒錯であるかもしれない。しかし、そういう日常を私たちは生きている。

 ところで、昨日観た映画は「呉 清源 極みの棋譜」。中国の田壮壮監督が2年間かけて完成させた佳作である。その静謐な映像は見事だった。先ずはキャメラの美しさを特筆すべきだろう。物語は1914年生まれで今年93歳になられ御壮健の呉氏の映像を交え稀代の天才勝負師の生涯を辿る。それは囲碁史に不明な観客からすれば不親切にも思われるだろうが監督の意図は優れた映像として定着されていると感嘆した。それは囲碁や将棋の勝負という人間の機微を良く捉えたと思うからだ。

 呉氏は日中戦争に翻弄された過酷で数奇な人生を経験された日中現代史の生き証人でもある。そのような氏の体験を象徴する域まで濾過し監督は見事に作品化された。万人向けではないが映画好きならその貴重な映像は受け入れられるだろう。同じ階の別な場所では「エディット・ピアフ」」も上演されている。先般はアカショウビンもそれを観たばかりである。こちらは万人向けの傑作であると思うが。

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