« ベートーヴェンとは何者か? | トップページ | やせ細る言葉 »

2007年11月17日 (土)

ベートーヴェンとは何者か?(続き)

 ベートーヴェンとは何者か?と問いながら気の利いた回答が出ずに思い悩む。それは作品を聴く人達それぞれに回答があるだろうしアカショウビンにも幾つかの作品に共振し共感し感応するだけで迂闊には言えないからでもある。

 先ごろ観たブコウスキーという米国の詩人のドキュメンタリー・フィルム作品の最後のクレジットが流れる映像に「悲愴」ソナタの2楽章が使われていた。それは通常のテンポからすると異様に遅いテンポだった。しかし、そのテンポがベートーヴェンという音楽家というより男の諦観というか諦念をモーツァルトのある種の音楽に聴こえる同種の響きと共振しあるいは拮抗するように聴こえた。それは幻聴かもしれない。あるいは錯覚しているのかもしれない。しかしベートーヴェンにしろモーツァルト、ブルックナーにしろアンダンテとアダージョという楽章に込められる心境というか魂は、時に、こちらを共振させ感応が行き交う心持がする。それは錯覚でもいい。ヒトは或る意味で、そのような心的状態で現在を生きる生き物ではないかと思うからだ。

 「悲愴」ソナタを、あれこれ聴き、先ほどはエリー・ナイの1967年の録音を聴いて心安らぎ、ベートーヴェンの演奏の或る到達点を聴く思いがした。続く作品26の12番のソナタも素晴らしい。晩年のナイの音楽がすべて込められているように聴く。ベートーヴェンという波乱万丈とも思える一生を終えた男の音楽の魂は、この女流ピアニストにもっとも切実に継承されたのではないかとさえ思う。

 音楽や美術も、その名作と称される作品は聴く者、観る者に或る種の錯覚をもたらすものかもしれない。しかし、それを聴き、観る者は時間を越えて作者と共に作品に表現された時間を共有する。その錯覚を嘘だとか妄想だとか切り捨てることはできまい。経験とか体験とは、そのようなものではないかと思うからだ。この世に棲む日々は長いようで短い。逆もあるだろう。しかし時間に棲む生ある生き物は、そのような時間を経過し、いつか死に至る。

 ベートーヴェンの人生はどうだったのだろうか?先の映画作品を観る限り決して幸せなものではなかったように思える。家族も作らず、おそらく女性との愛も実らず、疾風怒濤とも思われる人生をモーツァルトとは異なる経験で駆け抜けた。

  ベートーヴェンとは何者か?それは、その作品を聴き触発される人々それぞれが経験し回答するものだろう。アカショウビンにとっては何か?それは次々に出てくるどの回答も不満で、これというものが決まらない。しかし、その作品は、この世で生きる日々のまどろみに覚醒を促すものであり挑発であり時に癒しとなる音楽である。

|

« ベートーヴェンとは何者か? | トップページ | やせ細る言葉 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/17098040

この記事へのトラックバック一覧です: ベートーヴェンとは何者か?(続き):

« ベートーヴェンとは何者か? | トップページ | やせ細る言葉 »