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2007年11月26日 (月)

怒りと追悼

 先ず怒りから。原因は「週刊 碁 」という業界紙の記事による。11月4日から9日まで韓国の江陵(カンヌン)市で開催された「2007国際新鋭対抗戦」での日本勢の惨敗の詳報に目を疑った。記事の見出しは「大苦戦」。マスコミ・業界紙が如何に事実を隠蔽するのかの現在ただ今の見本である。かつての「大本営発表」の如きものだ、それは。それを「大苦戦」とは常識では言わない。「大惨敗」である。記者か編集者の姑息としか言いようがない本性には呆れる。しかも1ヵ月前の記事を全20ページの紙面の真ん中で何かこっそっりと掲載している。まぁ、それは下種の勘ぐりと思いたいが。しかし記念撮影に揃っておさまった写真を掲載するのは恥を晒して選手たちにとっては後々まで悔いを残すことになるのではないか?選手達は恥ずかしくてファンに顔向けできないだろうに。惨敗の内容は次の通りである。主将を務めた近年売り出し中の若手、井山裕太七段は中国・韓国の七段・六段に2連敗!チームは第1回戦の中国に1勝7敗!。2回戦の韓国にも1勝7敗!何をかいわんやである。

 これが日本の囲碁界の正真正銘の実力である。若手がそうで中堅、トップクラスがそうでないということはありえないだろう。今回は中国が圧倒的に韓国も負かしたが現在の実力はトータルでは韓国が世界一というのは衆目の一致するところだろう。しかし若手がこういう力差では韓国もうかうかしておられない。それからすると日本は大きく水をあけられているのだ。陸上競技で1周遅れ、水泳でプール半分以上も離され、息を切らしながら喘いでいる選手のようなものだ。スポーツは体力差がある。特に日本人は外国人に見劣りする。そんな古代ギリシア発祥の力比べに負けてもまだ悔しさは少ない。しかし囲碁・将棋は知力の勝負である。知力に身体の心肺機能や筋肉力、瞬発力は「あまり」関係ないだろう。つまり知的ゲームで日本のプロたちは中国や韓国の同業者たちより「頭が悪い」、ということなのである。もちろん、普通の人がそうであっても他で勝てれば人生はそれほど単純な勝ち負けは下されないものである。しかしプロは、それでメシを食う人々である。一部の業界で他国に負けても経済大国でお金があり裕福な生活が出来れば、そんなに目くじら立てなくても、という御仁もおられよう。しかしファン心理というものは、そんなものでないのはスポーツ観戦に熱狂する人々を見ればわかるはずだ。「頭が悪い」ということは囲碁や将棋の一対一の真剣勝負では「死」を意味する。

 昨今のように(昔からそうか)テレビを見る限り子供から大人まで皆さんがスポーツ好きで「負けても楽しめばいいのよ」と慰めとも自嘲ともつかぬフレーズがいつのまにか国土の隅々まで浸透した。しかし「知力」で負けることは「国民」として歯がゆくオリンピックと同じようにアカショウビンも一時的に過激ナショナリストになる。諸国の為政者たちやインテリ達は日本の囲碁の現状を透かして政治の茶番も含めて舐め切っていること明らかである。たかが囲碁、されど囲碁なのである。その事に業界人たちは、どれほど危機感を感じているのか?

 日本・中国・韓国・中華台湾の諸国で囲碁というゲームを長年研究し深め奥を窮めてきたのは日本である。かつては他国に断然水をあけてトップを走っていた。先の大戦のあとでは「木谷道場」の天才少年達の登場がそれをひときわ印象づけた。その彼らも齢を重ねて初老の域に達し往年の勢いは失せている。何人かは表舞台を去った。しかし偉大な趙 治勲は未だ健在である。そういった歴史に残るトップ棋士達が若手としのぎを削っている姿を近くで眺め学べる恩恵にあずかれるにも関わらずである。先の若手棋士たちの惨敗は。それは不勉強というよりテイタラクである。あぁ、アカショウビンの怒りに適当な言葉が見つからない!

 かつて木谷 實という奇特で面倒見のよい子供好きの好人物が私財を投げうって才能ある子供達を引き取り英才教育を実践した。氏は子供たちの心も身体も囲碁漬けにして研究させ次代の碁界を射程に少年達の薫陶に身を捧げた。その甲斐あって「木谷道場」からは天才少年達が続々と世に出た。その実力は中国や韓国を大きく引き離した。その隆盛に中国や韓国の天才少年たちは日本で囲碁を究めようと来日する。そこには差別も屈辱的な思いもあっただろう。しかし勝ち抜けば業界も世間も認め尊敬する。その清々しさは棋士とファンが築きあげてきたものである。一人のファンとして、そこに差別もへったくれもないのである。その結果、何人かが歴史的な棋士として名を残した。先日観てきた映画「呉 清源 」の呉氏が歴史に傑出する先駆けである。前人未到の境地とはこれを言うのだ。

 呉 清源、林 海峰、趙 治勲といった世界最強の棋士たちは日本で芸を磨き戦い頂点を極めたのである。現在の若手達はおそらくパソコンで研究しているのであろう。それは中国も韓国も同じようなものだろう。しかし何が違うのか?それは眼前の敵に対する闘争心と囲碁というゲームの奥深さに対する敬虔性の欠如ではないのか?眼前の敵は全身全霊で倒さなければ、その世界で生はないに等しい。囲碁も将棋も勝負事である。それは知力の争いという外に眼の前に座っている相手との触れることのない精神的格闘でもある。そこに馴れあいの隙を入れれば碁の神様からは見放されるだろう。

 少し冷静を欠いたきらいがあるのは自覚している。しかし一介のファンがかく言うよりご本人達がもっとも屈辱を味わっている筈なのは言うまでもないだろう。囲碁界や棋士達を尊敬するばかりの苦言と了解されたい。

 追悼に移ろう。

 それは今朝の朝刊で知った将棋棋士・真部一男八段の訃報だ。享年55歳。早過ぎる死である。1973年にプロ棋士になり天才棋士と将来を嘱望された。それに美男である。天は二物を与えた。しかし将棋界という世界は囲碁界もそうだろうが世間から見れば魑魅魍魎の棲む世界でもある。勝負の過酷さは堅気の日常からすれば異世界と言ってもよいのではないか。それは先の若手の囲碁棋士たちも肌身で直感している世界だと推察する。しかし中国や韓国の剥き出しとも推測される闘争心に怯んで優勢になっても勝ち切れないのだ。幸にも、あるいは不幸にも(世界の一流プレーヤーと戦い勝つことが出来ないということは勝負師にとっては不幸でもあろう)というべきか将棋棋士は韓国や中国と戦うことはない。将来はいざ知らず。

  アカショウビンは真部さんというほど親しくはなく先生と呼ぶほど師事したわけでもない。一人の勝負師への尊敬と哀悼を込めて文中の敬称は略させて頂くことをお断りする。

 鳴り物入りのデビューと、その後の勢いは、名人挑戦者を決めるA級にも入ったことで実力は証明されている。女性にはモテただろう。モテない輩が口悪く言えば真部はヤサ男である。友人の先輩棋士には俺は女にモテると己の性力を自慢し公言する豪傑もいた。しかし女性からすれば、そういう力を自慢するモテ男とは次元の違う妖しい魅力を持っていたのが真部という男だったのではないか。歌舞伎役者に御婦人達が群がるような妖しさと性的フェロモンを発散させていたと邪推する。その群がる女性たちを掻き分けて結婚したのは有名評論家の娘さんだった。週刊誌では才色兼備ともお見受けした。多くの女性ファンは歯ぎしりしハンカチも濡らしたであろう。しかしアカショウビンのような平均的な将棋ファンは天才が良妻を得て名人に向けて更なる精進も期待した。

 一人の将棋指しの突然のひっそりとした死は記憶の彼方から幾つかの光景を一挙に甦らせる。アカショウビンの学生時代は授業より当時の名画座や友人たちと遊びで始めた将棋熱が高じていつの間にか新宿の将棋道場に入り浸ることが多くなっていた。ほとんど何かに憑かれたように将棋にのめりこんでいったのである。大学の授業はさぼっても名画座と道場通いは止めない病気のようなものだった。その甲斐あって六級から始めた新宿と秋葉原の道場では二段にまではなれた。大学を卒業し就職してからは道場通いも少なくなり更に昇段するために勉強する時間もなくなった。

  新宿は今でも当時と変わらぬ大衆道場だが秋葉原のは小さなサロン風だった。そこで二段になった褒美に真部と飛車・角落ちで教えてもらったことがある。前の晩に定石書は一応読んで臨んだ。しかし将棋のプロというのは恐ろしい。定石を外され混乱しコロリと負かされた。その時に褒美の扇子を頂いた。決して達筆ではないが細く芯の強い文字だった。

 アカショウビンが大学を卒業し務めた会社は新宿にあった。出勤の或る朝、踏み切りの向こうから歩いて来るのが真部だった。褒美に二枚落ちを指して頂いてからしばらくたっていたからアカショウビンを覚えてもいないようだった。スーツ姿でもあり、あまりにも不甲斐ない敗戦だったから記憶に留まっていなかったと思われる。涼やかな風情で春風がそばを行き過ぎたようにスイとすれちがった。その頃はタイトルもとりトップ棋士に向けて順風満帆の頃だっただろう。

 その後、離婚をマスコミで知った。デビュー当時の華やかさと勢いは、派手な結婚、早過ぎる離婚が原因か、その後次第に衰えていく。天才・真部に何が災いしたのか?

 酒・女・博打の三点セットか?それは男の甲斐性とも言う。女性からすれば噴飯物だろうが。しかし将棋界は江戸時代以来の格式と戦前・戦後の破天荒な先達たちの旧習も残る古い世界でもある。真部も魑魅魍魎の棲む世界でそれに染まり溺れたのか?あるいは天才肌特有の努力不足か?本業より囲碁にかまけているとも聞いた。酒に溺れているとも。先輩には酒癖の悪いのも確かに多かった。離婚のあとには女性政治運動家との浮名も耳にした。その後は名人を目指す競争からは後から続々と出てくる少年達に追い越され、ここ数年は勝ち越すことも殆どなかったのではあるまいか。そこで突然の訃報である。この世で多少の縁もあった天才の早世を心から悼む。

  

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コメント

いやぁ、 怒りについてはあんぐりあいた口がふさがらない。

囲碁、将棋は親不孝の元とはいつの時代のことか?!

投稿: スタボロ | 2007年11月28日 (水) 午前 01時42分

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