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2007年10月12日 (金)

精神とは?

  「国民精神の根本的道徳的な宝は少なくとも、その基礎的な本質において経済力などには依存しない・・・・われわれは愛と結合の精神力を内蔵し保持することは、現在のわれわれの貧しい経済力でもできる、いな、もっとひどい赤貧状態でもできると断言する」。

 「不正や皮剥ぎ(トルコ兵のブルガリヤ人虐殺をさす)の値によって獲得された幸福などがなんであろう。それはもちろん、一時的に敗北して、しばらくの間貧困化し、市場を失い、生産を減少し、物価高騰を招くこともあろう。しかし、そのかわり国民の機構は精神的に健全でなければならぬ」。

 上記はある著作に引用されたドストエフスキーの言説である。省みて日本国の現状は「精神的に健全」であるのだろうか、と不安になるが「自分の事を心配したら」、という揶揄の声も聴こえる(笑)。

  先の大戦に敗北したあと人々は「貧困化し、市場を失い、生産を減少し、物価高騰を招」きながらも現在まで奇跡的な経済復興を成し遂げた。この歴史的な事実は東洋の島国の驕りと災禍を経て優秀と特異を世界に示した後代に残し誇るに値する歴史である。しかし現在、「国民精神の根本的道徳的な宝は少なくとも、その基礎的な本質において経済力などには依存しない」、という作家の洞察は今こそ新たな輝きと響きをもち、この国に照り返され、響いている、ように思われる。政治の呆けと怠慢は歴史と真摯に向き合い反芻、昧読することでいくらかは改められるカモシレナイがどうだろうか?それは自省を込めて言うのである。

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コメント

日本人の国民精神あるいは民衆精神は、武士道の浸透以来ねじまがってしまったのだと思う。

投稿: イエンス | 2007年10月12日 (金) 午後 04時04分

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