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2007年10月 4日 (木)

視熟と円熟

熟視という語はあるが視熟という語は広辞苑にはない。これはアカショウビンの造語である。先日フェルメールを観て、そのようなことも考えた。これまで各作品を観てきて「印象」はそのつど異なってくる。それは齢を重ねるごとに、もしかしたら「深く」なっているかもしれない。それはヒトが生まれてから死ぬまでの間に「時間」が与えてくれる「恵み」とも言えるだろう。 ヒトの視線から生じる映像には「時間」が作用し、それぞれの「意味」を付与する。それを「視熟」と名づけると少しは思考する対象がぼんやりと形を成してくるようにも思える。 

先日、小津安二郎監督の 「彼岸花」(1958年)をDVDで観直して、フェルメール体験と交錯する印象を受けた。小津の最初のカラー作品は芸の円熟と小津の描こうとした意図というのか思想が得心される完成度を示していると改めて思い知った。それは月並みに言えば「人生」であり、「虚無」であり、この世に、家族や友人・職場の仲間たちと棲むことの「喜び」と死別の「悲哀」である。小津の至芸がカラー作品になり円熟として本領を発揮した傑作とも思う。小津はじめ黒澤、溝口ら日本映画の巨匠やスタッフ達は映画を「シャシン」と称しモノクロ映像の美しさを究めるベク創作してきた。それが色付きとなるとキャメラマンも監督も勝手がまるで違う。多くの監督は、ある種の不安と恐れを抱いたに違いない。黒澤がカラーに慎重だったことは日本映画史で周知のことである。しかし黒澤の初のカラー作品「どですかでん」(1970年)からすると監督の持ち味が如何なく発揮されたのは黒澤でなく小津だったと確信する。

同作で笠 智衆が楠 正成親子の別れの場を朗々と吟じたあと、続けろよ、という仲間の頼みを頑なに断ったあと、自然に、「青葉茂れる櫻井の~」、と同窓生達が歌い出し唱和していくシーンは絶品というか、先のフェルメールの神品ともいえる印象とアカショウビンの心底で呼応した。また、そこには小津安二郎という映画作家が抱える何か急所のようなものも感じ取ったのであるが。特筆すべきはデジタル修正で映像が美しく再現されたことであろう。見違えるような美しさになったことを言祝ぎたい。

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