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2007年10月14日 (日)

変換力としての精神

精神とは何か? ある人の次のような説明はどうだろうか。

精神とは無秩序から秩序を作り出そうとするものである。しかし精神とは独裁を方法的に志向しようとする傾向がある。それに対して、神の獲得したもうひとつの能力、自分自身の意識によって、自己をすべての事物から引きはなすことができるばかりか、自分自身からも引きはなす。それは変換力としての精神というものだ。精神の自由である事から、いわば精神の精神とでもいうべきものをつくりだす。

自己を客観視することができるか?という問いに対して、上の考えは神(それはキリスト教の神であるが)を介して「然り」という回答である。では異教の神を信じぬ彼の神とは信仰上は縁なき衆生であるアカショウビンはどうか?

 

さきほどNHKテレビで「カラマーゾフの兄弟」の新訳を世に出し意想外な売れ行きを示している訳者の亀山郁夫氏の特集番組を見た。そこでは福音書を読むことで作品に斬新な重層性を加えたドストエフスキーの神に対する考えを識者にインタビューして番組が構成されていて興味深かった。

加賀乙彦氏は、ドストエフスキーは神を信じるかどうかで「ゆれていた」と語っていた。それは興味深い意見である。果たしてドストエフスキーは神を信じていたか?通常の理解では冒頭に挙げた先人の思考にみられるように神を通して精神のはたらきを考えるばあい神の存在を信じることが前提で述べられた言説である。しかしてドストエフスキーも福音書を読みこむことで作品に神学論争さえ持ちこむことは神を信じてのうえだろうと思うのだが、そうでもない、ということである。これは追求してみたい論点である。

 

精神とは何か?と問うことは神とは何か?と問うことと響きあうものであろうか。西洋では、そうであろう。しかして東洋の島国に生息する者にとって、それは新たな問いとして提出しなければならない問いであると思う。

何かズルズルと深みにはまっていく感もするが愚考に形は与えなければならない。その糸口がドストエフスキーという作家と作品にあることは間違いない。

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