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2007年10月 7日 (日)

視熟と歴史

先日は、小津安二郎の「彼岸花」を見て、その前に観て驚愕したフェルメールの「牛乳を注ぐ女」を視た時の経験を絡めて「視熟」という造語でヒトの視線について考えてみた。熟視という言葉の中にある本質を探ればヒトの視線とは何かと問うことになる。絵画にしろ彫刻にしろ或る対象を長年見ていると次第に同じ対象が違って見えるようになる。それを「視熟」と概念化してみればヒトの視線というものについてあれこれ思索できる。対象はそれを見る者が歳月を経て様々な経験を重ねることで異なって見えるようになる。それは視線が経験と共に熟してくることによる。前回も書いたようにそれはヒトが生まれてから死ぬまでの間に「時間」が与えてくれる「恵み」とも言えるものだ。ヒトの視線から生じる映像には「時間」が作用し「意味」を付与する。

一昨日、「ヒロシマナガサキ」というドキュメンタリー作品を観てきた。爆心地の米軍が撮影したものと思われる映像の幾つかはかつて見たものもあるが初めて観る映像もあった。それは米軍が国策として撮影した映像である。恐らくそれは或る時期まで米国政府が封印したものであっただろう。あるいは日系の監督が新たに探し当てたものもあるかもしれない。

監督のように米国で生まれ育った方にとってあの歴史事実は国家から隠蔽されたものとして米国の教科書の記述では記憶にさえ残らぬ程度のものらしい。それを監督は新たな視角で作品化した。しかしその動機となった歴史事実が如何に無残で残酷なものかの一端を伝えるに過ぎないだろう。カラーで撮影されたヒロシマの風景は苛烈なものである。先のブログで紹介した俳優の三國連太郎さんが戦争から戻ってきて見た風景と同じでも三國さんの経験を通してみた風景と米軍キャメラマンが受け取った風景とでは意味が異なる筈だ。作品では広島に原爆を落としたB29の搭乗員達にインタビューが行われ唖然とする感想が彼らの表情と共に撮影されている。また被爆者が戦後、治療のため渡米した時に現地のテレビ番組に出演しバラエティ番組で晒し者のように扱われている映像も挿入されていた。これまた唖然とするしかない内容だ。それは唾棄すべき陳腐な美談になっている。もっとも驚愕したのは、被爆したものの、かろうじて生き残った人々が無残に変形した自らの肉体をキャメラに晒し語るシーンだ。それは何と痛烈で声を呑む映像か。キャメラというのは何と残酷な道具か。監督は恐らくそれを自覚しているだろう。しかしそこで暴かれた歴史事実は「作品化」することで異なる位相に変換される。そしてそれを視る個々の視線によっても異なってくる。

小説についても同じだろう。年月を経て、つまり仏教でいう娑婆世界で経験を積むことで作品は異なって読まれるようになる。特にドストエフスキーのような宗教的・哲学的・歴史的な経験が深く影を落としている作品だと、こちらの人間的成熟が不可欠だ。先のブログで叩かれた女子大生も「カラマーゾフの兄弟」や「悪霊」、「白痴」、「未成年」を30歳、40歳、50歳になり読むと、またそれぞれ読み方が異なってくるに違いない。作品のなかのエピソードは万華鏡のように輝きを変えるだろう。我々が「萬葉集」や「源氏物語」など古典を読むのも、そういった経験を先人が重ね後学の者にその面白さを伝えてくれるのと自身が歳月とともに読み方が変わってくるからだ。

歴史事実についても同様だ。「斜陽に立つ」というタイトルで古川 薫氏が毎日新聞の日曜版で乃木希典を通して明治の歴史を辿っている。そこに描かれる乃木像は歴史事実から一歩も二歩も踏み込み乃木というひとりの個に対する関心の為せる読み方である。先ごろは吉田松陰に関する新聞連載が新書になり世にでた。教科書の記述でさえ同じ歴史事実が叙述の仕方で異なってくる。先の沖縄戦に対する県民の猛反発は国家が歴史事実を隠蔽しようとする欺瞞に怒りが噴き上げたものだ。国家は歴史を都合のよいものに変換・隠蔽する装置なのである。それは体験を語りで伝えてきた人々によって最もよく見抜かれる。

乃木や松蔭のような歴史的人物も時代を経て新たな資料が発見されることでまた異なった相貌を帯びてくる。古川氏の連載を読む面白さもそこにある。松蔭もそうだ。筆者の歴史事実に対する読みの浅深もまた問われる。

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