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2007年9月30日 (日)

フェルメール

一昨日、六本木の国立新美術館で開催されている「フェルメール オランダ風俗画展」を観てきた。お目当てはフェルメールの「牛乳を注ぐ女」。いやぁ、やはり本物は凄いオーラを発している。頭髪を覆う白い被り物と秀でた額の肉感、上半身を包む着衣の肌触り、フェルメール・ブルーというエプロンの色合いと質感、牛乳を入れる陶器の質感、これらを自在に描きだす技術。これら幾つもの要素の組み合わせで作品は構成されている。

館内を一回りして何度か「牛乳~」を見直した。右側の白い壁の空間と左側に描きこまれている女、テーブル、窓。そのアンバランスは画家の天才を示す証とも思量する。背景の白い壁から女が浮き出て生き物として存在する、それは果たして錯覚か?その経験は画集では認識不能だ。

 学生の頃に「ターバンの少女」(今は「真珠の耳飾りの少女」と呼ぶらしいが)、にゾッコンだったアカショウビンは以来フェルメール・ファン。しかし実物に接したのは数えるほど。18年前に仕事で10日くらい滞在したニューヨークのメトロポリタン美術館で観た作品が何だったか思い出さない(笑)。その前の1984年に上野の国立西洋美術館で開催された「マウリッツハイス王立美術館展」で画家初期の1655年頃(23歳)の作品とされる「ディアナとニンフたち」を観た。フェルメールが制作活動に入ったのが1650年頃というから約5年後の作品だ。ティツァーノ風の画風は円熟期の作品とは異質にも見えたが。

去年「フェルメール全点踏破の旅」(集英社新書)という本を出された朽木ゆり子さんのように日本にも情熱的なフェルメールファンが多い。平凡社のファブリ世界名画集(1971)の第17集がフェルメールで表記は「ヴェルメール」。 いつから「フェルメール」になり「ターバンの少女」は「真珠の耳飾りの少女」になったののだろう?

 それにしても絵画が光の芸術だといわれる以上にフェルメールの諸作は光を巧みに描いている。近くで視ると絵の具の盛り上がりは観る角度によって異なる印象を醸し出す。今回は想像したより間近で観られたのがさいわい。画面の右半分白い壁と窓の間で変化する色合いの漸減が神韻渺々。中国の水墨画を想起させられさえする。

 ここで「リアリズム」などと考えるのは小林秀雄流に言えば馬鹿げているのだろう。作品対象と観る者の感応が道交するのを経験すればよいのだ。

   アカショウビンはどうか。複製で馴染んだ作品の本物のオーラは対面して初めてわかる。作品は五感を刺激・挑発した。そこでは微かに「美」という人間的な「賢しら」がはたらくが。それにしても作品の構図は右側の白い壁の空間と左側に描き込まれた人物、テーブル、パンは常識的にはバランスを欠いている。しかし何度か描き直された結果のアンバランスにこそフェルメールの描きたかった狙いがあるのかもしれない。それこそが絵画における「存在」の現れ(わかりにくい言い方で恐縮)だと愚考する。そのアンバランスのなかには重力の法則さえはたらき、白い液体が光となって滴る。それは正に神韻渺渺の感があった。

 同美術館は初めてだったが広々とした空間はとても寛げた。「牛乳を注ぐ女」の前はさすがに人が鈴なり。作品は神品のオーラが横溢。足を運んだ甲斐はあった。

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コメント

大変勉強になります。
フェルメールのことをアメリカの友人は、ヴァミーエアーといっていました。またバッハはバックで、ゴッホはゴーでした。最初は誰のことか判らず、後で判ったときは笑ってしまいました。
ゲーテがギョエテと言うことですかね!

投稿: ワコウ | 2007年10月 3日 (水) 午後 09時37分

 「ヴァミーエアー」いいですね。その響きも。それは正に「ギョエテ」だったでしょう(笑)ね!アメリカ人にもヴァミーエアー・ファンやマニアは多いと思います。現代美術の果実と、古典となった作品の相関がアカショウビンのような素人には興味あるところです。お仕事ご精進ください。

投稿: アカショウビン | 2007年10月 4日 (木) 午前 08時08分

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