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2007年9月18日 (火)

民族主義の現在

 先のミクシイでのドストエフスキートピックへの書き込みを読んでいると、この国でもドストエフスキーが生きた時代背景を含めて理解しようとする読み手がいることも確認される。そのうねりのような語りに身を任せていると、読後には神とか革命といった主題で要約してしまう弊にも落ち込みかねない。見落としてはならないのは作家が生きた時代の多面性である。もちろん時代を無視した読み方もできる。しかし作家が時代思潮の中で作品を編み上げたことも事実である。その意味ではドストエフスキーが生きた時代に目を向けることは作家の全貌を理解することに資するはずだ。ドストエフスキーという作家は、そこまで視線を走らせないとすまない、と思わせられる衝動を駆らせるところがある。そのような知見が先のトピックからも得られる。それはドストエフスキーの民族主義者としての側面だ。

 日本人はかつては漢籍の読解と和語を漢字に置き換えることで中国から、ここ百数十年はロシアや英米独仏諸国から多く影響されながら文学的発展を遂げてきた。しかし歴史的には圧倒的に中国から影響を受けているのを見ればこの百数十年が歪なほど欧米文化の影響を受けていることに気付くはずだ。

 江戸の昔から漢籍を教養の基礎としながら中国文化の底に流れる儒教は、宣長はじめ、この国で反発されながら国学思想の展開となって現れた。維新以来それは一部の人々には継承されながらも大勢では漸減し先の大戦の敗北でそういった果実が一遍にないがしろにされたのが戦後の日本の表向きの歴史といってよいだろう。しかし、そこで切り捨てられたものに貴重な果実があることに盲目であってはならない。

 維新以降の福沢諭吉の脱亜入欧の影響が、この100数十年の歴史に色濃い影を落とし続けたともいえる。保田與重郎を読む面白さは、その100数十年が、この国にとって如何に特異で急激で歪な相貌を帯びていることか、ということに気付かされることなのである。それは左翼主義者が短絡する「反動思想」では抜け落ちてしまう視角だ。そのことに盲目であってはなるまい。

 先に言及した瀬島龍三の人生を辿ることでもそれは痛感される。戦争という、国家と国民が不可分に関わった歴史を顧みるうえで、それは現在に生きる国民として知りたい歴史事実なのである。そういった事実を知るうえで保阪正康氏の「瀬島龍三 参謀の昭和史」(文春文庫 1991年)は参考になり面白い。

 それはまたドストエフスキーが生きた時代とも呼応する現代日本に生きる我々に改めて問い返される古くて新しい問いなのである。

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