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2007年9月26日 (水)

鍋・釜のような実用品

 このブログは動機はあるが殆ど脈絡がない(笑)。日記でないのは確かだ。今宵はミクシイの書き込みがきっかけで突然に中島みゆきのYouTube画像と声を聴いている。便利な時代になったものである。プロモーション映像もあるが高名な「夜会」の映像やスタジオで一人歌っている映像、吉田拓郎とのデュエットまであり暫し見惚れ、聴き惚れている。

 中島みゆきはアカショウビンが高校生のころから聴き続けている歌い手で“歌姫”である。しかし中島みゆきは私見では巷間言い交わされる「フラレ唄」の歌い手ではない。「時代」で彼女は人が回想するという行為を諦観の境地にまで昇華させ、「世情」で学生運動の潮が退いていく頃に青春を過ごしたアカショウビンの鬱屈した日常に「ガンバロウゼ」と女神に成り代わり“オトコ言葉”で囁いたのである。こう書いていて少し恥ずかしくもあるが(笑)本当だ。アカショウビンは嘘は書かない。たまに記憶を脚色はするが(笑)。それにしても同時代を生きる歌い手に挑発され感銘し共感することができるという経験は幸せな事といえるだろう。

 アカショウビンは、中島みゆきの歌の魅力は“オトコ言葉”の使い分けにあると合点している。男と女を彼女は絶妙に歌い分ける。それは別な面からいえば“闘う女”で“女神”のような役割を歌で演じているとも言える。中島の歌を聴いて絶句することがある。そんな以前ではない。友人と飲みながら、その頃テレビでも流行っていた曲の話をしていて、その曲が脳裏に浮かび胸を突き上げるものがあった。中島の歌は人の、というより同世代のアカショウビンのような男の心の襞に分け入るツボを心得ている。それは確かだ。幾つかの曲は心底に届くと言ってもよい。

 前にも書いたが優れた歌い手には“歌壷”とでもいうものがある。それでなければ人の心を動かすことはできないと思われる。全共闘世代に中島みゆきがどのような聴かれ方をしているのか不明だが学生運動を闘った学生達に彼女の歌がエールとなって聴こえはしなかっただろうか。団塊の世代の少しあとのアカショウビンにはそう思われる声とメッセージを中島みゆきという歌い手から聴き取るのだ。

 筑紫哲也氏との対談では「私の歌は鍋、釜のような実用品として使っていただければいいのです」という言葉に“歌姫”の自信と才覚が躍如している。

 しかし“歌姫”の歌を実用品として聴くわけにもいくまい。それは「声と」して時に「メッセージ」として時に「哀しみ」として聴くのでなければ中島みゆきの歌に共感することはできないと思うのである。

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