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2007年9月10日 (月)

「魔笛」の映画化

  以下はミクシイのブログに書き込んだ内容のほぼ転載である。

 評判のケネス・ブラナー監督の「魔笛」を観てきた。劇場は新宿の「テアトルタイムズスクエア」。ここは初めて。映画館というよりコンサートも出来る劇場という作りでなかなか素晴らしい。音響効果もよろしかった。しかし平日とあって客の入りは4分の1くらいか。その分じっくりスクリーンと対面できたのはさいわい。
 かつてベルイマンの「魔笛」を見たときはオーケストラが不満だった。しかしブラナー版のジェイムズ・コンロン指揮ヨーロッパ室内管弦楽団は初めて聴いたが申し分ない演奏だった。時代設定が第一次世界大戦時というのはオドロキだったが音楽との相乗効果は見事というしかない。むしろ「魔笛」という御伽噺がレクイエムにもなっている。「魔笛」を聴いたことのない方には恐縮だが、このオペラで重要な役はザラストロというバス歌手によって歌われる。通常は単なるアリアとしか聴いていないアリアが映像では戦争で死んだ人々のレクイエムとして歌われる。そのシーンには涙が噴き出した。日本名の若者達の名が刻まれていたからだ。年齢は18や19歳。おそらく特攻で散って行った者達を追悼する含意もあったのだろう。その見識にも打たれた。そこには世界の言語が表記されていたと思われる。
 この作品は恐らく9・11以後の世界に対するメッセージが込められている。しかしそれよりもモーツァルトのオペラが、このように表現されて新たな生命を吹き込まれたことを喜びたい。作品の最大の功績は歌手もオーケストラも水準以上で演奏されるモーツァルトの音楽だ。
 ラストのマジック・フルートが投げ上げられてストップモーションになるエンディングはスタンリー・キューブリックの「2001年 宇宙の旅」を想起させられた。人間の祖先が武器としての骨を空に放り投げて、それが宇宙船に変わる、あの映画史で特筆される象徴的なシーンだ。そこで外国の劇場だったら大きな拍手が起きたのではないかと思った。しかし昨夜の観客は静かだった。アカショウビンも、そこで喝采を送りたい衝動をかろうじて抑えた。やはり日本人であるのが少々残念だった(笑)。
 ネットの感想を読むとケネス・ブラマーの映画「魔笛」が英語で歌われていることに違和感をもった方も多いようだ。しかしアカショウビンは殆ど違和感を覚えなかった。それはドイツ語を解さないせいもあるだろうが「魔笛」はこれまでかなり聴いてきているオペラで本来なら違和感を感じるはずだ。
 その理由を考えてみると映画ではCDで音に集中しているのと違いスクリーンに気をとられているからだろう。加えて映像は通常の演出と異なる換骨奪胎している内容である。呆気にとられ(笑)てスクリーンに魅入っていると音に意識は向かない。人間の五感のなかで視覚がもっとも強力であることの証であろう。
 かくいうアカショウビンもモーツァルトのイタリア語で書かれている「フィガロの結婚」を最初にレコードで購入したのはドイツ語訳のものだった。貧乏学生の頃にとりあえず廉価盤で購入したのであった。後にイタリア語盤も購入してからは多少なりとも違和感があったのは確かである。
 これは我見であるがラテン語系のイタリア語とゲルマン語系のドイツ語、英語の変換は確かに違和感があるが、ゲルマン語系のドイツ語と英語の変換には違和感は少ないと言えるのかもしれない。英訳でもアウフビダーゼンはドイツ語を生かしていた。英訳を検討したわけではないが訳者が相当に配慮しているとも思われる。もちろんドイツ語に堪能な方からすれば違和感は大きいだろう。
 しかし今回の作品はアカショウビンの知る限りベルイマン以来の「魔笛」の映画化で楽しめた。もっとも今年はアジア映画でもう一本、「魔笛」を扱った作品があったと聞いたけれども。
 ともあれ今回の「魔笛」が現代に実に面白く読み替えられ新しい生命を吹き込まれた収穫は大きいと思う。それは水準以上のオーケストラ、歌手が忠実にモーツァルトの音楽に奉仕していたことにもよると思う。

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