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2007年9月30日 (日)

フェルメール

一昨日、六本木の国立新美術館で開催されている「フェルメール オランダ風俗画展」を観てきた。お目当てはフェルメールの「牛乳を注ぐ女」。いやぁ、やはり本物は凄いオーラを発している。頭髪を覆う白い被り物と秀でた額の肉感、上半身を包む着衣の肌触り、フェルメール・ブルーというエプロンの色合いと質感、牛乳を入れる陶器の質感、これらを自在に描きだす技術。これら幾つもの要素の組み合わせで作品は構成されている。

館内を一回りして何度か「牛乳~」を見直した。右側の白い壁の空間と左側に描きこまれている女、テーブル、窓。そのアンバランスは画家の天才を示す証とも思量する。背景の白い壁から女が浮き出て生き物として存在する、それは果たして錯覚か?その経験は画集では認識不能だ。

 学生の頃に「ターバンの少女」(今は「真珠の耳飾りの少女」と呼ぶらしいが)、にゾッコンだったアカショウビンは以来フェルメール・ファン。しかし実物に接したのは数えるほど。18年前に仕事で10日くらい滞在したニューヨークのメトロポリタン美術館で観た作品が何だったか思い出さない(笑)。その前の1984年に上野の国立西洋美術館で開催された「マウリッツハイス王立美術館展」で画家初期の1655年頃(23歳)の作品とされる「ディアナとニンフたち」を観た。フェルメールが制作活動に入ったのが1650年頃というから約5年後の作品だ。ティツァーノ風の画風は円熟期の作品とは異質にも見えたが。

去年「フェルメール全点踏破の旅」(集英社新書)という本を出された朽木ゆり子さんのように日本にも情熱的なフェルメールファンが多い。平凡社のファブリ世界名画集(1971)の第17集がフェルメールで表記は「ヴェルメール」。 いつから「フェルメール」になり「ターバンの少女」は「真珠の耳飾りの少女」になったののだろう?

 それにしても絵画が光の芸術だといわれる以上にフェルメールの諸作は光を巧みに描いている。近くで視ると絵の具の盛り上がりは観る角度によって異なる印象を醸し出す。今回は想像したより間近で観られたのがさいわい。画面の右半分白い壁と窓の間で変化する色合いの漸減が神韻渺々。中国の水墨画を想起させられさえする。

 ここで「リアリズム」などと考えるのは小林秀雄流に言えば馬鹿げているのだろう。作品対象と観る者の感応が道交するのを経験すればよいのだ。

   アカショウビンはどうか。複製で馴染んだ作品の本物のオーラは対面して初めてわかる。作品は五感を刺激・挑発した。そこでは微かに「美」という人間的な「賢しら」がはたらくが。それにしても作品の構図は右側の白い壁の空間と左側に描き込まれた人物、テーブル、パンは常識的にはバランスを欠いている。しかし何度か描き直された結果のアンバランスにこそフェルメールの描きたかった狙いがあるのかもしれない。それこそが絵画における「存在」の現れ(わかりにくい言い方で恐縮)だと愚考する。そのアンバランスのなかには重力の法則さえはたらき、白い液体が光となって滴る。それは正に神韻渺渺の感があった。

 同美術館は初めてだったが広々とした空間はとても寛げた。「牛乳を注ぐ女」の前はさすがに人が鈴なり。作品は神品のオーラが横溢。足を運んだ甲斐はあった。

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2007年9月26日 (水)

鍋・釜のような実用品

 このブログは動機はあるが殆ど脈絡がない(笑)。日記でないのは確かだ。今宵はミクシイの書き込みがきっかけで突然に中島みゆきのYouTube画像と声を聴いている。便利な時代になったものである。プロモーション映像もあるが高名な「夜会」の映像やスタジオで一人歌っている映像、吉田拓郎とのデュエットまであり暫し見惚れ、聴き惚れている。

 中島みゆきはアカショウビンが高校生のころから聴き続けている歌い手で“歌姫”である。しかし中島みゆきは私見では巷間言い交わされる「フラレ唄」の歌い手ではない。「時代」で彼女は人が回想するという行為を諦観の境地にまで昇華させ、「世情」で学生運動の潮が退いていく頃に青春を過ごしたアカショウビンの鬱屈した日常に「ガンバロウゼ」と女神に成り代わり“オトコ言葉”で囁いたのである。こう書いていて少し恥ずかしくもあるが(笑)本当だ。アカショウビンは嘘は書かない。たまに記憶を脚色はするが(笑)。それにしても同時代を生きる歌い手に挑発され感銘し共感することができるという経験は幸せな事といえるだろう。

 アカショウビンは、中島みゆきの歌の魅力は“オトコ言葉”の使い分けにあると合点している。男と女を彼女は絶妙に歌い分ける。それは別な面からいえば“闘う女”で“女神”のような役割を歌で演じているとも言える。中島の歌を聴いて絶句することがある。そんな以前ではない。友人と飲みながら、その頃テレビでも流行っていた曲の話をしていて、その曲が脳裏に浮かび胸を突き上げるものがあった。中島の歌は人の、というより同世代のアカショウビンのような男の心の襞に分け入るツボを心得ている。それは確かだ。幾つかの曲は心底に届くと言ってもよい。

 前にも書いたが優れた歌い手には“歌壷”とでもいうものがある。それでなければ人の心を動かすことはできないと思われる。全共闘世代に中島みゆきがどのような聴かれ方をしているのか不明だが学生運動を闘った学生達に彼女の歌がエールとなって聴こえはしなかっただろうか。団塊の世代の少しあとのアカショウビンにはそう思われる声とメッセージを中島みゆきという歌い手から聴き取るのだ。

 筑紫哲也氏との対談では「私の歌は鍋、釜のような実用品として使っていただければいいのです」という言葉に“歌姫”の自信と才覚が躍如している。

 しかし“歌姫”の歌を実用品として聴くわけにもいくまい。それは「声と」して時に「メッセージ」として時に「哀しみ」として聴くのでなければ中島みゆきの歌に共感することはできないと思うのである。

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2007年9月21日 (金)

巷のドストエフスキー論争

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳の好調な売れ行きやネットでのドストエフスキー論争を垣間見てアカショウビンも高校、大学、社会人になってからのドストエフスキー体験を遡行している。しかし記憶は朦朧としてい明確な像を結ばない(笑)。とりあえずまとめた感想は次の如くである。

ドストエフスキーという作家の面白さはシベリア流刑体験と銃殺を免れた数奇な体験を核として人間存在の不可思議を小説という手法で多様に追求したことにあると思う。後期の長篇は陪審員制度を導入したばかりの当時のロシアで殺人事件を題材にする。当時の読者の好奇心にも加味しながら作家は物語を紡いでいったと思われる。そこで曼荼羅のように編み上げられた人間存在への透徹した視線と重層的な作品構成が人間世界の卑小を描きながら崇高の高みをも照射する。それは作家が流刑期に耽読した福音書の読解から生じている。そこに明滅する観念と現実の相克。作家は小説という表現形式でそれを大胆に繊細に表現した。空前にして絶後ともいえる創作。それがドストエフスキーという作家の魅力だ。

 物心ついた頃からヒトは家族や学校の人間関係を通して「この世」で生きることの意味を探りながら世間を渡る知恵と知識を学ぶ。その量の多寡はともかく質に関して個人差はある。遺伝的要素と、この世に生を受けてからの育ち方、思春期のそれぞれの経験の差異が個性という多様性を生む。女子大生が熱に浮かされたようにドストエフスキーを弾劾する語調には観念が先走る稚拙さもあるが気概も感じさせる。それが彼女に対する他者たちのコメントの動機をなしていると思われる。もちろん下品な揶揄もある。それが現今の仮想空間「社会」独特のコミュニケーションなのだろう。

 高校から大学時代といえば14、15歳から二十歳を出た数年間である。いわば最も感受性の強い時期でもある。その頃に経験する体験と読書が将来の人生に抜き難い影響を与えるのは押して知るべしだ。アカショウビンがドストエフスキーの小説を読み出したのも、そういう時期だ。しかし、その頃は好奇心旺盛で小説だけ読んでいるわけでもなかった。名画座で映画もみまくった。レコードで音楽に埋没した。アルバイトにも精出した。そのような多様な経験は千差万別。読書の経験というのもそれらのうちのひとつに過ぎない。思春期の経験は可能性と希望に満ちている。絶望も含めて。そしてそれ以降の経験でヒトは訳知り顔の諦観と達観、絶望にも至る。

 話は飛ぶ。先日、長島夫人の死の報道をテレビで見ながらヒトの人生とはなんだろうかと殊勝にも思い巡らした。時のスーパースターの妻として母親として過ごした64年間の人生は短かったのか長かったのか?夫婦とは?親とは?その親からすれば子供とは孫とは?この世で生きる楽しみ・苦しみは死する時にどのように振り返られ断念され観念されるのか?

 それはともかくドストエフスキーのテーマを友人は「形而上学的な原理と絶対的なものに対する美的な憧憬」と集約した。かの女子大生は異なった集約をする。アカショウビンにとってはどうか?

 思春期・青春期の経験を数十年経て辿ることはどのような意味があるのか定かではない。しかし、それが単なるノスタルジーではなく現在を生きるうえでの葛藤でなければ相応の磁場を発することはないだろう。

 アカショウビンの考えるドストエフスキー作品のテーマとは?それは簡単ではない。とりあえず言えば「神とは何か、あるいは何者か?」ということになる。福音書を読み込むことで作家は独自の「世界」を造り上げた。それは百数十年を経た人々に同様な問いを突きつける。その回答は女子大生であろうが賢い若者達であろうがチンピラなガキであろうがオヤジであろうがオバハンであろうが老人であろうが少年であろうが、それぞれに切実で多様な陳述や断言、おしゃべりとなる。

 この世に棲む日々をアカショウビンはこのような空間も楽しみながら生きていることに感謝しよう。

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2007年9月18日 (火)

民族主義の現在

 先のミクシイでのドストエフスキートピックへの書き込みを読んでいると、この国でもドストエフスキーが生きた時代背景を含めて理解しようとする読み手がいることも確認される。そのうねりのような語りに身を任せていると、読後には神とか革命といった主題で要約してしまう弊にも落ち込みかねない。見落としてはならないのは作家が生きた時代の多面性である。もちろん時代を無視した読み方もできる。しかし作家が時代思潮の中で作品を編み上げたことも事実である。その意味ではドストエフスキーが生きた時代に目を向けることは作家の全貌を理解することに資するはずだ。ドストエフスキーという作家は、そこまで視線を走らせないとすまない、と思わせられる衝動を駆らせるところがある。そのような知見が先のトピックからも得られる。それはドストエフスキーの民族主義者としての側面だ。

 日本人はかつては漢籍の読解と和語を漢字に置き換えることで中国から、ここ百数十年はロシアや英米独仏諸国から多く影響されながら文学的発展を遂げてきた。しかし歴史的には圧倒的に中国から影響を受けているのを見ればこの百数十年が歪なほど欧米文化の影響を受けていることに気付くはずだ。

 江戸の昔から漢籍を教養の基礎としながら中国文化の底に流れる儒教は、宣長はじめ、この国で反発されながら国学思想の展開となって現れた。維新以来それは一部の人々には継承されながらも大勢では漸減し先の大戦の敗北でそういった果実が一遍にないがしろにされたのが戦後の日本の表向きの歴史といってよいだろう。しかし、そこで切り捨てられたものに貴重な果実があることに盲目であってはならない。

 維新以降の福沢諭吉の脱亜入欧の影響が、この100数十年の歴史に色濃い影を落とし続けたともいえる。保田與重郎を読む面白さは、その100数十年が、この国にとって如何に特異で急激で歪な相貌を帯びていることか、ということに気付かされることなのである。それは左翼主義者が短絡する「反動思想」では抜け落ちてしまう視角だ。そのことに盲目であってはなるまい。

 先に言及した瀬島龍三の人生を辿ることでもそれは痛感される。戦争という、国家と国民が不可分に関わった歴史を顧みるうえで、それは現在に生きる国民として知りたい歴史事実なのである。そういった事実を知るうえで保阪正康氏の「瀬島龍三 参謀の昭和史」(文春文庫 1991年)は参考になり面白い。

 それはまたドストエフスキーが生きた時代とも呼応する現代日本に生きる我々に改めて問い返される古くて新しい問いなのである。

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2007年9月17日 (月)

ドストエフスキーの小説

 聞けば「カラマーゾフの兄弟」の新訳の売れ行きが好調のようである。女性読者も多いと聞く。アカショウビンが今年の5月ころから参加しているミクシイでもドストエフスキートピックを立てた18歳の女子大生の意見に手厳しい批判が相次いで賑やかだ。この国でドストエフスキーは日露戦争の前後から作家や評論家、学生、小説好きの市民まで幅広く読み継がれきていた。その伝統は昨今の現状もそれを裏付けたものといえるかもしれない。

 この国でドストエフスキーを読み込み深い洞察にいたった小林秀雄のドストエフスキー論は戦前から戦中、戦後と読み継がれた読解のうちで成ったものである。戦後は「近代文学」同人の、左翼思想の洗礼を受けた埴谷雄高、武田泰淳、椎名麟三たちがドストエフスキー漬けのなかでキリスト教信仰も絡めて深く影響され更に読みこんでいった。そういった経過の中から昨今のブームと見なしてもよい現象を見聞すると若い人たちから新たな視角が切り開かれてくる期待も高まる。

 かくいうアカショウビンも学生のころから今に至るまでドストエフスキーは読み継いでいる。昨年は辺見 庸氏の新著に触発されて「カラマーゾフ~」を書棚の奥から引っ張り出して、このブログに感想を書いた。

 ドストエフスキー作品の面白さは日本的小説の典型である私小説のモノローグではなく、様々な登場人物たちが議論、おしゃべり、スピーチ、独白、告白を展開する、音楽でいうポリフォニー(多声音楽)的な展開をするところにあるだろう。聖書に深く影響された晩年の長篇には哲学的、宗教的な思索・思考も加味される。

 そのような作家の多面性が時に誤読されることもある。先の女子大生の読み方も、あまりにも一面的で、年上の若い読み巧者たちや彼女の親の年代のドストエフスキー中毒患者から手厳しく批判されているのである。

  それにしてもドストエフスキーは世界文学に屹立する巨峰である。欧米はじめその影響は世界各国に及んでいる。小林はじめ埴谷たちの批評家、小説家たちも生涯かけて格闘してきた。かつて小林秀雄は日本は世界で一番ドストエフスキーを読んでいる国ではないか、と述べ、その分、もっともドストエフスキーに化かされているのかもしれないと皮肉っていた。

 若い頃にドストエフスキーに化かされた方々も多いかもしれない。アカショウビンもそのクチかもしれない。しかし様々に読まれながら読み返せば新たな発見がある。傑作・名作となった古典とはそういうものである。。若い人たちにはドストエフスキーだけでなく「源氏物語」、「萬葉集」もお読みいただきたい。文学では日本という国は才媛たちが世界に先駆けて頂点近く登りつめた時代があったのだから。

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2007年9月14日 (金)

甦る記憶

 ウェザー・リポートのキーボード奏者のジョー(アルバムによってはjosefの表記もあるが)・ザビヌルが死去した。享年75歳。翌日、CDの棚から引っ張り出してきて聴き直し追悼した。後で知ったのだが先月はドラマーのマックス・ローチも鬼籍に入っている。時代は気付かぬうちに刻一刻と変遷しているのである。

 アカショウビンのジャズ体験は学生の頃にハマッたコルトレーン、マイルスのモダンジャズに端を発する。その頃は西洋古典音楽から陽水、中島みゆきのフォーク、日本の演歌まで雑食のなかに棲み、生き延びる隘路を求めた。大げさだが当時も今も音楽にはずいぶん救われているのだ。

 ウェザー・リポートを聴いたのは随分あとだ。ザビヌルの経歴を見ると1959年、27歳のときにウィーンから米国に渡っている。その頃のジャズはモダンジャズが閉塞状況から脱しようと天才プレーヤー達が突破口を求めて苦闘していたハシリの時期と振り返ることもできる。ザビヌルの30代から40代はジャズがビ・バップからハードバップと「進化」し更にフリージャズに至るころである。西洋古典音楽党のアカショウビンも大学時代からジャズと出会いレコードやその頃は衰退の途上にあったとはいっても未だ残っていた「ジャズ喫茶」なる場所で名盤・駄盤・珍盤を聴きこなしていった。しかしザビヌルたちが突進して切り開いたとされるフュージョンという得体の知れない音楽に変貌した頃にアカショウビンは力尽きた(笑)。

 その後、今も1950年代の録音は相変わらず聴き続けているが、合間に70年代から80年代のレコード、CDを買い込み断続的に耳にしたのである。その過程でウェザー・リポートも聴いたのだった。

 ジョー・ザビヌルという「ピアニスト」はオーストリアから米国に移り演奏活動を続けた。50年代から60年代にかけてはキャノンボール・アダレイという人気アルトサックス奏者のバンドにも参加している。その頃は特に目立ったピアニストでもなかっただろう。それがウェザー・リポートを結成しテクニシャンたちの要となりエレクトリック・ピアノを弾きだした頃からスターに。70年代から80年代に次々とアルバムを生産し時代を象徴するバンドとなった。その後の消息はとんと知らなかった。それが訃報を聴いて懐かしくなりCDを棚の奥から引っ張り出し聴いているのである。その音を聴けば当時の記憶が走馬灯の如く甦る。

 米国で花開き展開していったジャズという音楽は極東の青年の耳と精神をも挑発、刺激した。その影響の何たるかは全体像が知りたいという衝動を駆る。そこで耳にしたフュージョンから以後の音楽はアカショウビンには、まるで西洋古典音楽の流れと断絶した現代音楽を聴かされているような印象だった。少年期から青年期にかけてアカショウビンの耳と精神は西洋古典音楽に染められていたのだ。それは美術にも文学にも共通する。話が飛び過ぎそうだ。それは後日。

 

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2007年9月13日 (木)

歴史を見晴るかす困難

 歴史を見晴るかすことの困難さ。これが安倍首相辞任の本質とアカショウビンには思われる。安倍さんの歴史観の硬直さと歴史的視界の狭さ。それを現在のこの國の国民は峻拒した。その回答に首相とそのブレーンたちは敗北したのである。

 このブログは政治ネタを殆ど扱わない。しかし例外はある。

 その日もアカショウビンはラジオでニュースを聞きながら食事に出かけ別のブログで盛り上がっている指揮者のCDと先日亡くなったジョー・ザビヌルというキーボード奏者のCDを探しにショップをハシゴしたのであった。それをオヤジオタクと言うのかも知れないが知ったことではない。

 それは国民として怠慢なのだろうか?そうだ、と凄む輩もいるだろう。しかし人はそれぞれの生をまっとうするために国民としてでなく「人間」として可能な限り「国家」とは距離をとるのである。

  安倍辞任を市場は歓迎している。「神の手」は冷酷で冷静である。日本の政治的空白は国際社会からは殆ど取るに足らぬ現象だ。国民の関心は多様化し政治の茶番は先刻見通し。それは社会的インフラがいくらかでも安定しており、市民がいくからでも政治的に成熟している証しかもしれない。政治家が無能で官僚が腐敗しメディアが痴呆化しても日本社会がかつてのように急転回しないのは国民の成熟なのか、はたまた救い難い鈍感さなのか。

 先の瀬島龍三の死は首相の決断とブレーンたちの思惑にどれほど影を落としているのか?その辺りがアカショウビンの関心ではあるが。恐らく皆無と忖度する。

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2007年9月10日 (月)

「魔笛」の映画化

  以下はミクシイのブログに書き込んだ内容のほぼ転載である。

 評判のケネス・ブラナー監督の「魔笛」を観てきた。劇場は新宿の「テアトルタイムズスクエア」。ここは初めて。映画館というよりコンサートも出来る劇場という作りでなかなか素晴らしい。音響効果もよろしかった。しかし平日とあって客の入りは4分の1くらいか。その分じっくりスクリーンと対面できたのはさいわい。
 かつてベルイマンの「魔笛」を見たときはオーケストラが不満だった。しかしブラナー版のジェイムズ・コンロン指揮ヨーロッパ室内管弦楽団は初めて聴いたが申し分ない演奏だった。時代設定が第一次世界大戦時というのはオドロキだったが音楽との相乗効果は見事というしかない。むしろ「魔笛」という御伽噺がレクイエムにもなっている。「魔笛」を聴いたことのない方には恐縮だが、このオペラで重要な役はザラストロというバス歌手によって歌われる。通常は単なるアリアとしか聴いていないアリアが映像では戦争で死んだ人々のレクイエムとして歌われる。そのシーンには涙が噴き出した。日本名の若者達の名が刻まれていたからだ。年齢は18や19歳。おそらく特攻で散って行った者達を追悼する含意もあったのだろう。その見識にも打たれた。そこには世界の言語が表記されていたと思われる。
 この作品は恐らく9・11以後の世界に対するメッセージが込められている。しかしそれよりもモーツァルトのオペラが、このように表現されて新たな生命を吹き込まれたことを喜びたい。作品の最大の功績は歌手もオーケストラも水準以上で演奏されるモーツァルトの音楽だ。
 ラストのマジック・フルートが投げ上げられてストップモーションになるエンディングはスタンリー・キューブリックの「2001年 宇宙の旅」を想起させられた。人間の祖先が武器としての骨を空に放り投げて、それが宇宙船に変わる、あの映画史で特筆される象徴的なシーンだ。そこで外国の劇場だったら大きな拍手が起きたのではないかと思った。しかし昨夜の観客は静かだった。アカショウビンも、そこで喝采を送りたい衝動をかろうじて抑えた。やはり日本人であるのが少々残念だった(笑)。
 ネットの感想を読むとケネス・ブラマーの映画「魔笛」が英語で歌われていることに違和感をもった方も多いようだ。しかしアカショウビンは殆ど違和感を覚えなかった。それはドイツ語を解さないせいもあるだろうが「魔笛」はこれまでかなり聴いてきているオペラで本来なら違和感を感じるはずだ。
 その理由を考えてみると映画ではCDで音に集中しているのと違いスクリーンに気をとられているからだろう。加えて映像は通常の演出と異なる換骨奪胎している内容である。呆気にとられ(笑)てスクリーンに魅入っていると音に意識は向かない。人間の五感のなかで視覚がもっとも強力であることの証であろう。
 かくいうアカショウビンもモーツァルトのイタリア語で書かれている「フィガロの結婚」を最初にレコードで購入したのはドイツ語訳のものだった。貧乏学生の頃にとりあえず廉価盤で購入したのであった。後にイタリア語盤も購入してからは多少なりとも違和感があったのは確かである。
 これは我見であるがラテン語系のイタリア語とゲルマン語系のドイツ語、英語の変換は確かに違和感があるが、ゲルマン語系のドイツ語と英語の変換には違和感は少ないと言えるのかもしれない。英訳でもアウフビダーゼンはドイツ語を生かしていた。英訳を検討したわけではないが訳者が相当に配慮しているとも思われる。もちろんドイツ語に堪能な方からすれば違和感は大きいだろう。
 しかし今回の作品はアカショウビンの知る限りベルイマン以来の「魔笛」の映画化で楽しめた。もっとも今年はアジア映画でもう一本、「魔笛」を扱った作品があったと聞いたけれども。
 ともあれ今回の「魔笛」が現代に実に面白く読み替えられ新しい生命を吹き込まれた収穫は大きいと思う。それは水準以上のオーケストラ、歌手が忠実にモーツァルトの音楽に奉仕していたことにもよると思う。

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2007年9月 5日 (水)

「戦後」という時空間

 瀬島龍三氏死去の報がマスコミでそれなりに報じられても若い人たちには「誰その人?」だろう。アカショウビンとて氏の戦前・戦中・戦後の経歴を詳しく知っているわけでもない。しかし概略で氏の経歴を辿れば大戦の遂行の中枢にいて過酷なシベリア抑留生活を体験された戦争の生き証人である。氏の死で先の大戦がまた遥か「歴史」の彼方に消え逝く感のするのも否めない。

 毎日新聞に掲載されたコメントで日野原医師が「最後まで筋のある発言をされていた」と述べられている。ノンフィクション作家の保阪正康さんは「生きている間に体験した史実を語ってほしかった」と話されている。

 東京裁判でソ連側証人として発言した経緯からすれば戦後に実業家としてまっとうされた生涯の裏に隠された史実にアカショウビンも関心をもたざるをえない。戦争遂行に400万人の陸軍を動かしたエリート将校の発言は国民として知りたく思うのは人情というものである。

 黙して語らずというのが武人・軍人の美学かもしれない。しかし戦後を生きながらえ一人の個として公的な発言が聴きたかったとアカショウビンは思う。

 まだ保田與重郎は文人として私的に発言もし文章として我々も読むことができるだけ刺激・挑発・共感・反発もできる。そこには小林秀雄の「オレは馬鹿だから反省はしない」という江戸っ子的な啖呵も響いて聴こえる。

 それにしても氏の死でまたひとつ先の戦争が人々の記憶から遠ざかっていくのだけは確かだろう。しかし国家の「歴史」はこれから編まれていくのである。その成り行きにはアカショウビンも生きている間だけでも注視したいと思うのである。

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