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2007年8月 2日 (木)

学び、楽しみ、悼む

   白川 静の「孔子伝」(1972)で著者は繰り返し孔子が卑賤の出自で母親は巫女であったであろうと推測する。そして彼と弟子たちの集団を教団と見なしている。偉大な人格と彼を慕い、あるいは妬み嫌う周囲の弟子たち。それは氏が想い描くようにイエスと弟子たちを想い起こさせる。また卑近な例で言えば麻原彰晃と弟子達との姿でもあったのかもしれない。そういう想像を逞しくさせる発見が同書にはある。「論語」をアカショウビンは宗教書として理解していなかった不明を恥じる。そうか、「論語」は倫理書などではなく「経典」だったのか!弟子たちがイエスを語り釈迦を語ったように孔子が語られているわけだ。なるほど。 

 この歳になっても学ぶ事は多い。と言うより歳を経る毎に学ぶ事は多くなっているではないか。そして人生の残り時間は残り少なくなってくる。この矛盾とどう折り合いをつけるか。それが中高年の喫緊の課題ではあるまいか。その一方で若い頃に観逃した映画や読み残した書物、聴き逃した音楽録音を聴く楽しみもある。まぁ、嫌な事ばかりでもないのが救いではある。

 昨夜は別なブログにも書いたのだがレンタルDVDで増村保造監督の「からっ風野郎」(1961)を観た。三島由紀夫が出演している作品として噂は聞いていた。三島の奇妙な存在感が不思議である。演技は素人の域を出て上出来ともいえる。何より役に成りきっている。と言うより役柄を生きている如き存在感に驚く。 しかしアカショウビンが最初に三島のスクリーンでの存在に感心したのは五社英雄の傑作「人斬り」(1969)である。三島は薩摩の死客、田中半兵衛を演じて見事だった。あの作品で五社と三島は坂本龍馬役(!)の石原裕次郎という俳優が如何に大根であったかを自ずと明かしてしまった。三島の存在感は余技を超えていた。プロが素人に及ばないということは恥である。増村と三島は同学年で増村のほうが少し早く生まれている。学部は異なるが同じ東大出で親近感もあっただろう。

 これを書いているところへ作詞家の阿久 悠氏が亡くなられたという報が入ってきた。アカショウビンにとっては何より「舟歌」(1979)の歌詞の作者だった。それから「白いサンゴ礁」(1969)の。最近こそ殆どなくなったが、かつては秋葉原、御徒町、上野で飲むと二次会、三次会は湯島のスナックに流れるのが定番だった。酔いにまかせ唄う「舟歌」はよいのだ。降旗監督の「駅ステーション」で歌う倍賞智恵子は上手すぎていけない。あれは八代亜紀のハスキーボイスや飲み屋でオッサンが唄い唸る品の悪い濁(だみ)声がいいのだ。

 
 ネットで追悼のコメントを読んでいたら野球の好きな氏が「(野球は)僕のころは、どこか宗教的だった。ボール1個あれば成立するんです」という談話が紹介されていた。
 1つの白球が「宗教的だった」という感覚は言い得て妙である。そうなのだ。あの頃わたしたちは野球という「宗教」にのめりこんでいたのだ。そう言えば何か腑に落ちる。
 増村作品が世に出た1961年という年は高度成長期で日本人が敗戦の屈辱と貧窮から脱却しようと勢いに満ち溢れていた時代だ。テレビでは野球とプロレスが国民の楽しみの多くを引き受けた。

 阿久さんや我々が感じる「野球」というゲームの面白さや三島という小説家のスクリーンでの存在感をあれこれ考えていると今の若者がハマッているインターネットの仮想空間での存在感とはどのように違うのか、といった問いにも誘われるのだ。が、今はともかく、また別の機会に。

  7月30日には小田 実氏が亡くなった。アカショウビンは若い頃に小田氏の著作に少しは眼を通した者だ。当時は氏が主宰するべ平連を筆頭にベトナム反戦運動が盛んだった。安全なところにいてオダをあげる彼らを冷やかな眼で見るインテリも多かった。しかし当時、小田 実は時の人だった。アカショウビンは反戦デモにこそ参加しなかったが氏が雑誌や週刊誌に登場する文章と語りには出来る限り眼を通すのを楽しみとした。

 特に今や都知事の石原氏が自民党で党内改革をするのだと息巻いていた頃の小田さんとの対論は両者の姿勢が対照されて今でも想い起こされる。石原氏が政治は鳥瞰図の視線がなければいけない(取意)、と語るのに対し小田さんは「オレは虫瞰図だ。地面を這いつくばることのないあなたと私は人間と社会を見る眼の位置が違う」と切り返していた。いやぁ、それは実に痛快だった。あの頃は、いわゆる「新左翼」と旧左翼との確執、三島と全学連の対論なども時代のエネルギーとしてアカショウビンは面白くてしょうがなかった。一時代を象徴した人が逝くのは何か物寂しいが浮世とはそういうものだろう。

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コメント

良かったね儒教が宗教だという考えに行き着いて。これが時代が下るにつれて様々な学派・派閥に別れていった。そんな中、いわゆる忠君愛国もその中のバリエーションの一つ。国家神道に盛り込まれている教えのベースが儒学・儒教てしっていた?

投稿: ざっつ | 2007年8月10日 (金) 午前 12時42分

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