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2007年8月28日 (火)

差別と仏教

 先日、偶然の機会から富士山麓にある或る寺に詣でてきた。久しぶりにアカショウビンも神妙な気持ちで都会の喧騒を忘れることができた。

 そのような経験が先日読んだ三國連太郎さんの著書「親鸞に至る道」(光文社文庫 1984年)を反芻する機縁にもなった。

 三國さんは次のように書かれている。

 「私が親鸞にひかれるところは、業(ごう)----宿業観について、強く反発し、拒否しつづけているところなんです。業という観念に自分のなかで妥協していく----妥協というのは私の誤解なのかもしれません----でもその観念を人間がうけとめていくと、結果は、いつまでたっても差別意識から人間は解放されないのです。(同書p101)

   この著作のなかで明かしておられるように三國さんの祖父は「両刃のウメガイ(注)を一本懐(ふところ)にして、死人(しびと)の棺桶をつくることを生業とする漂泊民」(p57)であった。お父上も、その職業を継いで小学校を出るとすぐ棺桶屋になられた。大正デモクラシー社会では、それは差別される職業ということでもある。1918年(大正7年)のシベリア出兵は「おやじにとってけっして祖国のための戦いではな」く、「世間からつまはじきにされる棺桶屋からぬけだしたかったから」(p57)と述べられる。戦争に出ることで三國さんの父親は「一般社会で『良民』と遇される条件を獲得するために、兵役、納税の重い義務を負おうとさ」れたのである。

 周知のように業(カルマ)、宿業観というのは仏教の専売特許のようなものだ。「過去世」を重視するのが仏教という宗教の特徴でもある。しかし三國さんは親鸞に、それを強情に否定した特異な仏教者を視る。

 「過去の業が特定であるならば、未来に向かっても、個別の生命は特定な存在となってしまいます。そうした考えは、仏教がいちばんきらっている『霊魂』の存在を肯定することにつながるのではないでしょうか」(p101)。その問いかけに仏教者はどう答えるのか。興味あるところだ。

 インド仏教は中国、日本と移入されて次第に原型とかけ離れて展開された。奈良・天平時代に天台宗が支配した日本仏教は時の権力と妥協してインド仏教を変貌させた。鎌倉時代に至り、最澄以来の法華経重視の天台宗に反発し、法然・親鸞は浄土三部教に光をあて、新たな仏教理解を深めた。そのため彼らは弾圧された。

 三國さんは書く。

 「浄穢の価値観にもとづく差別思想は日本の仏教が歴史のなかでつくり、民衆のなかに浸透させたものですが、まことに非人間的な日本独自の教説です。その価値観を動かせないものとして正当化したのが宿業観でした。親鸞は宿業観を否定することによって、『悪人正機』への道を必然的に導きだしたわけです」(p106)。

   この著作には学者や信者でない一人の市井人=被差別者が親鸞の思想に肉薄していく凄みさえ読み取れる。名優の隠れた内面と精神が知られてよかった。これから親鸞を読み直す機縁にもなるだろう。先日アカショウビンが詣でたお寺は浄土宗ではないが、どうなのだろうか?いわゆる「葬式仏教」ではない仏教という伝統宗教の現代的な価値は、三國さんのように果たして根底から求められているのだろうか?

 (注)ウメガイとは、幻の民「サンカ」のシンボル。サンカとは戦前までいた山の民あるいは放浪の民.。彼らが生活の道具としてある時は鉈、ある時は細工刀、また料理など万能に使っていた刀のこと。

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2007年8月24日 (金)

国の歴史と戦争の記憶

 昨年秋に渡辺京二さんの「神風連とその時代」(洋泉社 渡辺京二著 2006年6月21日)という新書を読み感想を10月10日と14日に書き込んだ。揶揄とも叱咤とも受け取れるコメントもあったが先日、或るブログで渡辺京二氏が御著作で次のように述べているという記事を読んで興味深かった。夏が過ぎていく前に少しは先の大戦と日本という国の歴史を再考するために失礼ながら孫引きであるが引用させていただき思索の材料としたい。

 私(渡辺京二)は、戦前の天皇制と今日の「天皇制」はまったく性格を異にするもので、それゆえにこそ昭和二十年の敗戦はひとつの革命だったのだと信じている。松本清張のように、国王の首がとばねば革命ではない(松本清張『北一輝論』)と信じている阿呆は、このさい論外である。われわれは敗戦と戦後改革とが、まぎれもない一個の革命だったことを、ひややかに承認すべきだと思う。むろんそれは、戦後の「革命家」たちの幻影のなかにあった革命ではなかった。しかしそれは、戦前の天皇制社会の構造を完全に変革したのである。

 戦前的天皇制国家が敗戦革命によって消滅したことを承認する以上、戦後の天皇を、戦前における天皇がそうであったようなひとつの思想的原理として相手どろうとするのは、北一輝流にいえば、言葉に対するモノマニアックな固着にすぎない。北が『国体論及び純正社会主義』で主張したことのひとつは、古代的天皇、中世的天皇、明治国家における天皇は、それぞれ性格を異にする歴史的範疇だということであった。それが「天皇」という共通の呼称をもっているからといって、その歴史的性格を混同し、たとえば明治国家における天皇に古代的天皇の歴史的性格を付会するのは、理論的にも実践的にも許されぬゴビュウダトいうのが、二十三歳の北にとっての「科学的認識」だったのである。

 だが、明治国家の天皇に古代的天皇の神権的性格を付会せしめたのは、明治国家の支配エリートの必要であったと同時に、いわゆる皇統連綿たる天皇家の歴史的継続性であった。今日、戦前的な天皇制の消滅を認めながらなお、思想的問題として天皇制を重要視せずにおかれぬ人たちは、おそらくこのような天皇家の歴史的継続性に、おそろしく根の深い民族的固疾を見出し(固疾の固は原文ではやまいだれが掛かる)、その亡霊を思想的敵としてあいてどらずにおかれぬのであろう。

(略)

 だが。。。。そのような天皇制の歴史的継続性に関する思いこみは、ひとつの錯視の産物である。戦前日本国家における天皇は、この国の歴史のごく一時期にだけ存在した特異な歴史的現象で、それが体現しているかにみえた神秘性や魔術性は、戦前日本社会という特殊な歴史的民族社会の構造の関数にすぎなかった。そればかりではない。天皇家の歴史をよく見なおして見ると、それが千数百年の生命を誇りえているのは、いくつかの歴史的条件の偶然的に幸運な組み合わせに負う点が多いことが理解される。

(略)

 彼(北一輝)は、天皇が明治国家において議会とならんで国家意志を代表する一機関たりえているのは、ただ維新革命によって国家の必要のために擁立されたからであり、天皇家の連綿たる伝統などとは論理的にはまったく無関係だと考えたのである。

 つまり北がいわんとしたのは、近代日本国家の天皇は、それまで存在していた中世的天皇(さらにさかのぼれば古代的天皇)とは、少なくとも論理的には何の関係もない「国家」の被造物だということである。彼は、そんなものが維新革命によってつくり出されたのは、歴史の必然的一過程としての錯誤だとさえ考えていた。今日の眼で見れば、この北の直感はおそろしく正確だったことがわかる。徳川家をしりぞけて近代日本国家の神聖君主となった天皇は、じつはそれまでの全日本史の上にかつて存在したことがないような異様な天皇であった。それはこの国の歴史で、わずか八十年だけ存在を許された特異な現象にすぎなかった。いいかえればそのことは、戦前の天皇制国家がすでに生成と死滅のサイクルを了えた一回きりの特殊な歴史現象だといことを意味する。これは戦後の「天皇制」を論ずる場合、何をおいてもおさえられねばならぬ最重要の前提であって、この点をおさえていない議論は一切何をいっても無効だというふうに私には感じられる。

 維新革命が創出した近代天皇制はすでにその歴史的使命を終えた。今日存在するものは、戦後市民社会の構造と矛盾せぬかぎりで残存せしめられているその遺物である。

(略)

 王制は今日世界的規模で実質を失っているが、形式においても、それが21世紀を通じて生き残らねばならぬ理由は絶無だといっていい。

 今日の天皇が千数百年の余栄を負うて発しているかにみえる残光についていえば、そういう歴史的継続性の光輝自体が、明治国家の設計者達が細心につくりあげたフィクションであったとすべきである。戦前の天皇に付与された歴史的光輝や儀飾は、彼らが古代的遺制に手を加えるか、あるいは大幅につけたすかしてつくりあげたものにすぎない。維新前の天皇の性格は、衰亡に瀕した古代専制君主の遺制プラスとるにたらぬ京都近傍の小封建領主であって、もし維新革命の指導者がうちすてておいたならば、革命のもたらす外光と外気に触れて、遠からず頽然と崩れ落つべき運命にあった。幕末にあって天皇は尊皇イデオロギーに浸潤された武士や神官や国学者をのぞく日本人大多数にとって、生存上いささかも意識せずにすませうるような存在でしかなかった。それを千数百年間、たとえ現実の支配権は失っても、たえず日本人の魂の奥底に生き続けて来たものであるかに定位しなおしたのは、まったく明治国家の設計者たちの意識的な労役にほかならない。

(略)

 北の論理構成においては国家は国民と同義である。だから彼には、国民が革命のためひろいあげてやった天皇が、自分を神権的国王であるかに思いちがえて国民に対し支配者然と君臨しようとするのは、許しがたい反革命的な倒錯にさえ感じられた。国家がその必要から創設したものなら、国家はそれを「進化」に応じて自由に改廃することができる。

(略)

 彼ら(明治国家の建設者)は新しい民族国家を共和国として構想する途を、先験的に封じられていた。なぜなら彼らは、封建領主の家臣としての三百年に近い記憶に縛られており、高貴でより正統な君主を探し出さずには、それまで臣属してきた君候への忠順の義務を解除するために案出された論理だという北一輝のみかたは、その主観的な意図についてはともかく、客観的な役割についてはおそろしく鋭い指摘といっていい。うがっていうならば、彼らが、かつて一度も臣属したことのない天皇の、譜代の忠臣であるかのような自己幻想を昂進させたのは、先祖代々奉公してきた君候を棄て去ったやましさの代償でさえあったかも知れない。

(略)

 彼ら維新革命家が一国の国民を<臣>としてしか発想しえない武士階級であったことは、天皇を東洋的デスポットとして新生国家に君臨させた直接の原因だったといいうる。

(略)

 彼らは、天皇のために革命をやったのではなく革命のために天皇を必要としたのだという自覚を、意識のかたすみにしっかりと残していた。彼らが天皇を「玉」と呼ぶことがあったのはそのためである。彼らは戦闘専業者の本能からして、何よりも軍事的に強力な国家を求めた。列強に併呑されぬ強国を建設することが、彼らのほとんど唯一の革命のエートスだった。しかも、知的に優秀であった証拠には、彼らは西欧列強の軍事的優越の秘密を瞬時に見ぬいた。彼らの発見によればそれは資本制であった。資本制にもとづく国民国家イークォル軍事的強国。この等式を見ぬいたと信じたとき彼らの進路は決まった。国家による資本制の創設、それが明治国家建設のかならずしも自覚せざる意味のすべてだった。

以下略」(「伝統と現代」昭和53年5月号)

 ここに引用されている渡辺氏の考えにアカショウビンは共感する。敗戦の日を過ぎて現在の政治情勢を含めて何か言わなければならないとすれば、この言説を踏まえていなければ首相の発言を含めて殆どが論ずるに足らない「おしゃべり」としか言えないと確信するが如何であろうか?

                

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2007年8月19日 (日)

屋久島の縄文杉

 友人のN君が屋久島旅行から帰ってきて旅の話を電話で聞いた。羨ましい体験である。アカショウビンには巨樹信仰のような気質がある。樹木の生は人間の生を見晴るかす存在を直感するのだ。各地の神社や仏閣を訪れての楽しみはそのような巨木、巨樹に出会う楽しみである。

 N君が親子で訪れた屋久島はお嬢さんにとっても貴重な思い出となることであろう。長寿な巨樹からすれば人間共の一生など多寡が知れたもの。自然の偉大と崇高に黙して対面すれば生とは何か、この世とは何か、自ずと人間達の腑に落ちるのではないだろうか。

 ここ何年か前職の仕事で訪れる機会のあったのは小田原の飯泉観音の大イチョウである。それは見事な巨樹だ。人間共の些事を見下ろす風格がある。鷺が巣を作っている安心さ、ゆったりした時間が流れているのに心安らぐ。

 アカショウビンの御盆は読書とDVD、CD三昧で不精このうえない。巨樹の自然の囁きと生の震えを体験する貴重さは無上の経験であろう。子供達の歓声と蝉時雨。そして鎮魂。これが夏を生きるアカショウビンの現在である。

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2007年8月18日 (土)

この世の記憶

 「これで、この世に思い残すことないの、兵隊さん」。このような言葉は国家を盾に抗争する、あらゆる場所で、生死を分かつ究極の場で、それぞれの声音で問われ、それぞれの感情と断念と強がりで応答されたと推量される。

 アカショウビンは従軍慰安婦問題を論じようというのではない。その言葉は、三國連太郎さんが「親鸞に至る道」(p86 光文社文庫1987)で広島の娼婦から聴いた最後の言葉として記されている。三國さんはその言葉を涙で心底におさめ戦地に赴いたと書かれる。しかし復員した時に見た瓦礫の光景は氏を根底から打ちのめしただろう。その女性も一瞬にか、苦しんでか、あるいは戦後を生き延びたとしても三國さんは再会することはなかったのである。

 死ぬ筈の男が生き残り、生き残る筈の女が死に果てた。 このような経験は人間を変えるだろう。

 戦後を生きるなかで親鸞に収斂していく三國さんの人生の決定的な経験が想像される。

 新藤監督が、「原爆が落とされた一瞬と、その数秒後を描きたい」という執念を『徹子の部屋』という番組のなかで語っておられた。三國さんの経験と新藤さんの言葉の重さを夏が過ぎるまで少しでも再考したいと思う。

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2007年8月15日 (水)

おっちょこちょい

 毎日新聞の8月10日夕刊に金子兜太さんのインタビューが掲載されている。「生き物感覚があるか」という見出しだ。87歳の、先の大戦を兵士として経験された人の語りは重い。氏が現首相を評する言葉は痛烈である。

 「腹立たしいほどに、おっちょこちょいですね」と氏は安倍首相を評する。同感だ。それは米国大統領、前首相と共通する呆れた為政だとアカショウビンは共感する。

 前首相が、かつての敵国で無能な大統領に媚びたパフォーマンスをした時にアカショウビンは呆れた。そして現首相の、意固地というのか愚鈍というのか説明責任を果たせない無能ぶりにも同様に。

 この、國の鎮魂の日に現閣僚は一人を除き誰も靖国へ詣でないのだ。もって瞑すべしである。米国では、このような所業を「チキン」というのではないか。

 それはともかく、昼間のテレビで新藤監督が出演して自作を語っていた。為政者達はこの95歳の現役監督の新作(監督は若い人だが原作・脚本は氏の渾身のものである)「陸に上がった軍艦」を見るべきである。國の舵を握る、戦争を知らない現首相は、あの大戦を外地と内地で経験した金子氏や新藤監督の発言を全身全霊で精神に刻むべきではないのか?

 金子氏が戦地を去る時の句は古代の詩人の挽歌とも読める。それは無念でありまた慟哭であるだろう。

 水脈の果て 炎天の墓碑を置きて去る

 

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2007年8月 9日 (木)

戦争の記憶

  昨日の午後、渋谷へ久しぶりに足を運んだ。この街は前職の仕事で通過するか、CDショップを覗くか、小劇場でしか上映されていないマイナー映像作品を観に行くか、の三択である。今回は後者。90歳を越えた映画作家、というより生涯シナリオライターの自覚が見事な新藤兼人監督の原作・脚本・証言、山本保博監督による「陸(おか)に上がった軍艦」を観に。老いてなお矍鑠たる氏の執念漲る作品を拝見した。この夏、未だ先の戦争に御関心のある方には是非ご覧になっていただきたい作品である。同じビルの別のスクリーンでは他の新藤作品も日替わりで上映している。
 ここで内容の説明は割愛する。前回の小田 実的史観からすると、これは内地の「戦場」で過酷な「戦闘」を経験した兵士の虫瞰図的体験談である。将軍や将校の視線でなく最下層の兵士予備軍の。
 戦争は家族、家庭を破壊する、とナレーター役の新藤さんは穏やかに、時にユーモラスに、朴訥に、ゆるゆると、しかし明晰に語る。それを深読みすれば、人間をも破壊する、と。その発話の奥に垣間見られるのは氏の執念の如きものである。
 召集された100人のうち生き残ったのは新藤さん含めて6人。これが戦争というもので国家の本性というものだ、と新藤さんは含羞もてキャメラに向かい語りかける。
 戦争には負けたが、これでやっとシナリオが書ける、と大っぴらに口には出来なかっただろうが、本音はそうだと了知される表情が好かった。
 昨夏は黒木和雄監督の遺作となった「紙屋悦子の青春」に頭が下がった。今年は黒木氏より年長の新藤さんが自らの戦争体験を映像化された。その執念と飽くなき作家魂を言祝ぎたい。

 苦言を呈すれば、この劇場で上映されている他の新藤作品が一本1300円というのは決して良心的ではない。これでは若い人が全作品を観るのにいくらかかるというのだ?概算すると3万2千5百円ではないか!新藤作品は中高年がノスタルジーで見る作品ではない。それを興行師は意識に上せているのか!フィルムセンターなら二本立てで300円で上映するところだろう。

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2007年8月 7日 (火)

追悼 小田 実

   「もう手遅れと医者はいうんや、もっと生きたいよう、死にとうないわ。寂聴さん、元気になるお経あげてや」

 声は明るく冗談めいていた。私は絶句して、泣いていた。

 瀬戸内寂聴さんが東京新聞に書いた追悼の結句である。無断引用で恐縮。小田 実が亡くなり何か書いておかねばとネットを見ていると懇切な文章に幾つか出会った。ネット上では毀誉褒貶かまびすしいようだがそれほど読んだわけではない。アカショウビンは前回のブログに書いたように若い頃に、少しは氏の書いたものを面白く読んでいる。小説よりは評論の類の方が面白かった。時代のなかで氏より若い世代には気になる存在だった。もっとも高校生の頃に文学少年だったという大学時代の友人は殆ど読んだことがないと話していたからアカショウビンが思っているほどでもないかもしれない。

 その活動は「運動家」という印象が強いが後半生は小説家として優れた作品を残しているように見聞する。アカショウビンは、その饒舌体と評された文体に距離を置くためにいつしか著作からは遠ざかっていたが新聞に掲載される文章は読み続けていた。氏の文体は今で言えばレゲェやラップ音楽のようなものだと思う。誰でも真似しやすいが真似はしょせん真似。芸術は創造である。独創こそ命。卑しくも文学を志す者この世に二つとない創造を目指すのである。若いアカショウビンは氏の饒舌の文体を「文学的に」警戒した。逆に言えば小田 実は若くして自分の文体を構築し市民政治運動と相乗させ独特の個性を造り上げた。

 著作集の「小田実/全仕事」は絶版と聞く。再刊されることがあるかもしれない。全貌はこれから明らかになっていくだろう。アカショウビンが知っている小田 実はほんの一部だ。

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2007年8月 2日 (木)

学び、楽しみ、悼む

   白川 静の「孔子伝」(1972)で著者は繰り返し孔子が卑賤の出自で母親は巫女であったであろうと推測する。そして彼と弟子たちの集団を教団と見なしている。偉大な人格と彼を慕い、あるいは妬み嫌う周囲の弟子たち。それは氏が想い描くようにイエスと弟子たちを想い起こさせる。また卑近な例で言えば麻原彰晃と弟子達との姿でもあったのかもしれない。そういう想像を逞しくさせる発見が同書にはある。「論語」をアカショウビンは宗教書として理解していなかった不明を恥じる。そうか、「論語」は倫理書などではなく「経典」だったのか!弟子たちがイエスを語り釈迦を語ったように孔子が語られているわけだ。なるほど。 

 この歳になっても学ぶ事は多い。と言うより歳を経る毎に学ぶ事は多くなっているではないか。そして人生の残り時間は残り少なくなってくる。この矛盾とどう折り合いをつけるか。それが中高年の喫緊の課題ではあるまいか。その一方で若い頃に観逃した映画や読み残した書物、聴き逃した音楽録音を聴く楽しみもある。まぁ、嫌な事ばかりでもないのが救いではある。

 昨夜は別なブログにも書いたのだがレンタルDVDで増村保造監督の「からっ風野郎」(1961)を観た。三島由紀夫が出演している作品として噂は聞いていた。三島の奇妙な存在感が不思議である。演技は素人の域を出て上出来ともいえる。何より役に成りきっている。と言うより役柄を生きている如き存在感に驚く。 しかしアカショウビンが最初に三島のスクリーンでの存在に感心したのは五社英雄の傑作「人斬り」(1969)である。三島は薩摩の死客、田中半兵衛を演じて見事だった。あの作品で五社と三島は坂本龍馬役(!)の石原裕次郎という俳優が如何に大根であったかを自ずと明かしてしまった。三島の存在感は余技を超えていた。プロが素人に及ばないということは恥である。増村と三島は同学年で増村のほうが少し早く生まれている。学部は異なるが同じ東大出で親近感もあっただろう。

 これを書いているところへ作詞家の阿久 悠氏が亡くなられたという報が入ってきた。アカショウビンにとっては何より「舟歌」(1979)の歌詞の作者だった。それから「白いサンゴ礁」(1969)の。最近こそ殆どなくなったが、かつては秋葉原、御徒町、上野で飲むと二次会、三次会は湯島のスナックに流れるのが定番だった。酔いにまかせ唄う「舟歌」はよいのだ。降旗監督の「駅ステーション」で歌う倍賞智恵子は上手すぎていけない。あれは八代亜紀のハスキーボイスや飲み屋でオッサンが唄い唸る品の悪い濁(だみ)声がいいのだ。

 
 ネットで追悼のコメントを読んでいたら野球の好きな氏が「(野球は)僕のころは、どこか宗教的だった。ボール1個あれば成立するんです」という談話が紹介されていた。
 1つの白球が「宗教的だった」という感覚は言い得て妙である。そうなのだ。あの頃わたしたちは野球という「宗教」にのめりこんでいたのだ。そう言えば何か腑に落ちる。
 増村作品が世に出た1961年という年は高度成長期で日本人が敗戦の屈辱と貧窮から脱却しようと勢いに満ち溢れていた時代だ。テレビでは野球とプロレスが国民の楽しみの多くを引き受けた。

 阿久さんや我々が感じる「野球」というゲームの面白さや三島という小説家のスクリーンでの存在感をあれこれ考えていると今の若者がハマッているインターネットの仮想空間での存在感とはどのように違うのか、といった問いにも誘われるのだ。が、今はともかく、また別の機会に。

  7月30日には小田 実氏が亡くなった。アカショウビンは若い頃に小田氏の著作に少しは眼を通した者だ。当時は氏が主宰するべ平連を筆頭にベトナム反戦運動が盛んだった。安全なところにいてオダをあげる彼らを冷やかな眼で見るインテリも多かった。しかし当時、小田 実は時の人だった。アカショウビンは反戦デモにこそ参加しなかったが氏が雑誌や週刊誌に登場する文章と語りには出来る限り眼を通すのを楽しみとした。

 特に今や都知事の石原氏が自民党で党内改革をするのだと息巻いていた頃の小田さんとの対論は両者の姿勢が対照されて今でも想い起こされる。石原氏が政治は鳥瞰図の視線がなければいけない(取意)、と語るのに対し小田さんは「オレは虫瞰図だ。地面を這いつくばることのないあなたと私は人間と社会を見る眼の位置が違う」と切り返していた。いやぁ、それは実に痛快だった。あの頃は、いわゆる「新左翼」と旧左翼との確執、三島と全学連の対論なども時代のエネルギーとしてアカショウビンは面白くてしょうがなかった。一時代を象徴した人が逝くのは何か物寂しいが浮世とはそういうものだろう。

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