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2007年7月14日 (土)

叔父の死

叔父は一昨日、病院で未明にひとり静かに逝った。叔母も従妹たちも臨終に間に合わなかった、と声を震わせた。アカショウビンが数日前、見舞いに行ったときは、とても話したりない、といった風情で途中から呼吸器を外し話しかけてきたのだ。眼光はしっかりしていて話すごとに病状や叔母や娘のことなど次々と話題が湧き出て話がとまらなかった。この様子では年内は持ちそうだ、と安心し病院を後にしたのだった。

 それから数日後に容態は急変し誰にも看取られずに逝った。深夜の1時過ぎに看護師(今はそう言うらしいが女性だろう)が声をかけたときはベッドに座っていて返事したという。それが午前3時過ぎに見回った時は既に亡くなっていたそうだ。叔父は夜中に目覚めて座っていたときに覚悟をしたのかもしれない。それは見事な最期のようにアカショウビンは直感した。

亡くなる前の夜には、几帳面で口うるさい叔父が叔母に、これまで悪かったと謝り、髯も剃り月代も整えながら丁重にお礼をしたという。その深夜の訃報を聞き叔母と従妹が駆けつけたときは眠るような姿だった、と午前7時前に電話をしてくれた従妹は嗚咽した。

数日前にアカショウビンと話したときには、医師が家族に病状が嵩じたときは延命処置をするかどうか聞いてきたという話を知り、延命治療などする必要はない、と言ってやったと気丈に話していたのだ。

  叔父は先の戦争で14歳くらいに沖縄への特攻に駆り出されるはずだった。子供の頃から母にはよく聞かされたものだ。母も祖父と昭和19年に船に乗っているところを米軍機から攻撃され17歳で危うく殺されるところだったと話していた。叔父は、ところが乗るはずの船が敵に沈められ死に損なった。その後、成人してからの叔父の仕事は祖父と同じ印刷業だった。アカショウビンの母方の祖父から引き継いだ印刷所は伯父と父が引継ぎ父も独立した。しばらくそこで父と共に働いたあと叔父も独立した。しかし創業のころはともかく、小さな島で競争も次第に厳しくなり50歳代の後半に仕事をたたみ上京した。しばらくは都内の印刷屋に勤めていたが倒産。その後は娘夫婦の住む千葉に移り孫の成長を楽しみながらアルバイトや叔母の働きで生活していたと聞いた。アカショウビンは、それほど親しく行き来するわけでもなかったが、母が上京したときや偶に会うときは、夫婦でよく旅行をしていると聞いた。昨年は人生の大半を過ごした故郷を夫婦で訪れ知人と旧交を温めてきたと話していた。人生の最後の予感はあったのかもしれぬ。

 葬儀は身内と友人たちだけの小じんまりとしたものだった。アカショウビンは、足の弱った80歳の母が千葉まで行くのを渋ったのに怒り、弟の葬儀に出ないとは何事か、と大阪から我が弟に連れてきてもらった。この何年か姉弟はケンカ状態だったのである。しかしやはり血を分けた姉弟だ。棺の前で義妹に声をかけ泣いた。姪やその子供達とも久しぶりに会い成長した姿に驚き声をかけた。棺の蓋を閉じる時に母や叔母、従妹たち、その夫や孫たちは激しく泣いた。特に今年、高校を卒業し大学受験に落ち予備校に通っているという長男の孫の泣き顔と声は率直で悲痛で哀れだった。やせ我慢のアカショウビンにはできなかった姿だった。

 数日前に会ってから、それにしても早すぎた死だった。もう一度くらいゆっくり話したかった。しかし話に聞く死に方は立派で見事だ、と思った。男として夫として父親として祖父として天下に誇ってもよい死に方だ、と心から思った。

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