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2007年7月30日 (月)

芭蕉から万葉集へ

 このブログを書き綴る契機になったのはハイデガーの存在論を読み直し「存在」と「時間」を再考する試みと保田與重郎と小林秀雄という批評家の未読と既読の文章を読み直すことが目的であった。その過程でアカショウビンのとるに足らぬ日常も紹介しながら書き継いできた。

 しかしそれほど暢気になってもいられないのが自他の日常である。残された時間はあまりない。核心の部分に切り込んでいかなければならないと焦りも生じる。保田の文章を辿り直し新たに読みながら、このブログの動機に立ち返り書き込んでいかねばと思うのである。そこで時間のあるうちに読みつつある本を絞り込みながら主題に集中していきたい。

 保田の「萬葉集の精神」(新学社 2002年)は大伴家持を介して人麻呂、赤人らを論じる書だ。それは現在のこの國の「歴史」を再考するうえで必要不可欠の論考と考えるのがアカショウビンの問題意識である。保田の戦前・戦中の喧しい日本論に対する一線の引き方こそが読み直さなければならない急所と思うからだ。それは「萬葉集の精神」の中で保田が繰り返し強調している。戦後の文壇は殆ど、それを排除した。それが一人の批評家の処遇に象徴的な評価となって政治的にも文化論的にも不透明な現象として現れた。果たして、その不透明さ、あるいは捩れは本来の姿に戻すことができるのだろうか?その問いを発し回答しようとするのが、このブログの意図のひとつでもある。

 しばらくは保田の「萬葉集の精神」と、ここのところ読み続けている白川 静の「孔子伝」(2007年 改版5刷 中央公論新社) や万葉論を思索の導きの糸としながら感想を書き継いでいきたい。

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