« 叔父の死 | トップページ | 身過ぎ世過ぎ »

2007年7月23日 (月)

精神分析の現在

 河合隼雄さんが亡くなられた。NHKの深夜の番組で河合さんの追悼番組の如きものが放映されているので、お話を見聞きしながら遅まきながら河合さんの「思想」とは何か、という問いを立てて思考してみる衝動に駆られた。アカショウビンは河合さんが関わられたユングに若いころ興味を持ちユングの著作には親炙した者だから河合さんの言説には、この30年間、気にかかっていた人だ。しかしメディアに登場する氏の言説は「表層的」で深層的な影響力には疑問を持ってきたのであることは明かしておきたい。しかしそれでも「表層的」な影響を無視することはできない、と思うのがアカショウビンの優柔不断なところである(笑)。そんないい加減な言説も河合さんなら許してくれるだろう、という「甘え」からアカショウビンは何事かを述べたい衝動に駆られるのである。

 いうまでもなく精神分析と宗教とは虚実皮膜の関係にある。山折哲雄さんという宗教学者との対話でも、そこが急所である。仏教の研究者である山折さんとの対話は短い時間で語り尽くせるものでもあるまい。

 アカショウビンも叔父の葬儀で家族の悲しみと親子、家族の感情の複雑さ、深みと宗教性といった事に思いを新たにした。

 河合さんが幾人かの対談相手と話をしながら、河合隼雄の「思想」というものが果たして明確に表出されているようにも思えなかった。それは「思想家」という位置づけと「分析家」としての役割のなかで彷徨っている人物という感がアカショウビンの印象だ。あくまで印象である。フロイトとユングが創設した「精神分析」という、それは「学問」と言えるものかどうかわからないし洋の東西でどれほどの「意味」をもつのか詳らかにしない領域の言説に関心を持続している者としては何事か述べておかなければならないと触発されるのである。フロイトとユングがドイツ文化圏のなかで創設しフランスでもジャック・ラカンらが継承した、それは治療体系という以上に「思想運動」といったほうが適切な言説に関わった者としてはその現在と帰趨を了解したいという衝動を抑えることはできない。

 この国には「京都学派」という知的な人々が存在する。それは先の大戦でも、それなりの役割を果たした。アカショウビンが関心を持つ保田與重郎も関西に在住し「京都学派」の論説とも関わりがなかったとも思われない。それは傍証が必要なテーマだが、これから少しは明らかにすることも必要だと思うのである。

 山崎正和さんとの対話は恐らく現代日本の政治状況を論じて急所と思われる会話が交わされている。その対話のなかで河合さんが「個人」と「宗教性」というキーワードを通して「国家」といった事も考えたい、というような話をされていたのはアカショウビンも共感する論点である。

 河合さんが患者と対話する時と各界の知識人との対話では位相が異なるはずだ。しかし、その「境界」を河合さんという人は治療医の経験から乗り越えようと努力精進された人だと思われる節がある。その辺りの「河合思想」というか「河合学」とも成りえる研究がこれから為されていくだろう。その言説には眼にふれる限りアカショウビンもコメントしていきたいと思うのである。

|

« 叔父の死 | トップページ | 身過ぎ世過ぎ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/15850142

この記事へのトラックバック一覧です: 精神分析の現在:

« 叔父の死 | トップページ | 身過ぎ世過ぎ »