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2007年7月27日 (金)

芭蕉

 前回のブログで芭蕉を想起し果たして現在のこの國に芭蕉の「軽みと風雅」はどれほど根を張っているのかとふと思ったので少し考えてみた。芭蕉が國の歴史に大きな影を落としたのは教科書や文人たちの関心を辿れば分かり易いことだ。しかし、その本質と本体はどれほど現在の日本人に深く影響を与えているのだろうか?かえって、この詩形は海外から新鮮な思いで熟視されているのかもしれない。 

 わたしたちは教科書や芭蕉を主題にした書物で芭蕉という名前を記憶に留める。しかし作品や生の足跡を辿り、どれほどその姿は記憶と精神に刻印されているのだろう。アカショウビンにとっても、それは実に曖昧なものである。しかしかつて保田與重郎の「芭蕉」を読んだことが関心を未だに持続する契機となっていることは確かだ。

 保田が「芭蕉」を上梓したのは昭和18年10月21日である。戦中に保田は國の歴史に深くのめり込み芭蕉も集中して思考した。新学社の文庫版(2001)では眞鍋呉夫氏が解説を記しているが講談社学術文庫(1989)では保田が兄事した中谷孝雄氏が書かれておられる。氏がこの作品を初めて手にされたのは南方戦線から生き延びて帰国した昭和21年5月以降のことと記されている。保田が帰国したのも中谷氏の数日前のことと言う。

 中谷氏の文章は保田の戦後の著作と処遇にも配慮しながら共感と冷静と深い友情に満ちた解説である。保田が「近代の芭蕉論を否定し文明開花を否定し、新興俳句を否定し」、芭蕉が「軽みと慟哭の詩人」であったという保田の新説が保田與重郎という文人の存在を時代に刻したと読み取れる行間は氏の眼力と精神の柔軟さを現しているように読める。

 保田が神の如しと畏敬した本居宣長の境地に國の歴史の中では唯一芭蕉が「殆ど近いところまできてゐ」たと断ずるのが保田の認識である。しかし中谷氏は「句風からいえば、無技巧で自然のままに平明な句風をよしとするという程の意味であろう」とやんわり述べるところが中谷孝雄という人の境地を示しているようにも思えるのだ。

 

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