« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »

2007年7月30日 (月)

芭蕉から万葉集へ

 このブログを書き綴る契機になったのはハイデガーの存在論を読み直し「存在」と「時間」を再考する試みと保田與重郎と小林秀雄という批評家の未読と既読の文章を読み直すことが目的であった。その過程でアカショウビンのとるに足らぬ日常も紹介しながら書き継いできた。

 しかしそれほど暢気になってもいられないのが自他の日常である。残された時間はあまりない。核心の部分に切り込んでいかなければならないと焦りも生じる。保田の文章を辿り直し新たに読みながら、このブログの動機に立ち返り書き込んでいかねばと思うのである。そこで時間のあるうちに読みつつある本を絞り込みながら主題に集中していきたい。

 保田の「萬葉集の精神」(新学社 2002年)は大伴家持を介して人麻呂、赤人らを論じる書だ。それは現在のこの國の「歴史」を再考するうえで必要不可欠の論考と考えるのがアカショウビンの問題意識である。保田の戦前・戦中の喧しい日本論に対する一線の引き方こそが読み直さなければならない急所と思うからだ。それは「萬葉集の精神」の中で保田が繰り返し強調している。戦後の文壇は殆ど、それを排除した。それが一人の批評家の処遇に象徴的な評価となって政治的にも文化論的にも不透明な現象として現れた。果たして、その不透明さ、あるいは捩れは本来の姿に戻すことができるのだろうか?その問いを発し回答しようとするのが、このブログの意図のひとつでもある。

 しばらくは保田の「萬葉集の精神」と、ここのところ読み続けている白川 静の「孔子伝」(2007年 改版5刷 中央公論新社) や万葉論を思索の導きの糸としながら感想を書き継いでいきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月27日 (金)

芭蕉

 前回のブログで芭蕉を想起し果たして現在のこの國に芭蕉の「軽みと風雅」はどれほど根を張っているのかとふと思ったので少し考えてみた。芭蕉が國の歴史に大きな影を落としたのは教科書や文人たちの関心を辿れば分かり易いことだ。しかし、その本質と本体はどれほど現在の日本人に深く影響を与えているのだろうか?かえって、この詩形は海外から新鮮な思いで熟視されているのかもしれない。 

 わたしたちは教科書や芭蕉を主題にした書物で芭蕉という名前を記憶に留める。しかし作品や生の足跡を辿り、どれほどその姿は記憶と精神に刻印されているのだろう。アカショウビンにとっても、それは実に曖昧なものである。しかしかつて保田與重郎の「芭蕉」を読んだことが関心を未だに持続する契機となっていることは確かだ。

 保田が「芭蕉」を上梓したのは昭和18年10月21日である。戦中に保田は國の歴史に深くのめり込み芭蕉も集中して思考した。新学社の文庫版(2001)では眞鍋呉夫氏が解説を記しているが講談社学術文庫(1989)では保田が兄事した中谷孝雄氏が書かれておられる。氏がこの作品を初めて手にされたのは南方戦線から生き延びて帰国した昭和21年5月以降のことと記されている。保田が帰国したのも中谷氏の数日前のことと言う。

 中谷氏の文章は保田の戦後の著作と処遇にも配慮しながら共感と冷静と深い友情に満ちた解説である。保田が「近代の芭蕉論を否定し文明開花を否定し、新興俳句を否定し」、芭蕉が「軽みと慟哭の詩人」であったという保田の新説が保田與重郎という文人の存在を時代に刻したと読み取れる行間は氏の眼力と精神の柔軟さを現しているように読める。

 保田が神の如しと畏敬した本居宣長の境地に國の歴史の中では唯一芭蕉が「殆ど近いところまできてゐ」たと断ずるのが保田の認識である。しかし中谷氏は「句風からいえば、無技巧で自然のままに平明な句風をよしとするという程の意味であろう」とやんわり述べるところが中谷孝雄という人の境地を示しているようにも思えるのだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月26日 (木)

身過ぎ世過ぎ

 前の書き込みの河合隼雄さんの生活の糧は治療医だったのか、あるいは有名人としての講演料や雑誌などへの執筆活動だったのか?他人事ながら失業中のアカショウビンにとっては気になった事でもある。

 先ごろ知人が新会社を設立しベンチャー業をやるというので誘われた。あれよ、あれよと言う間に共同で事務所を借り準備に奔走している。知人の構想はともかくアカショウビンには乗りかかった舟というところで実に心もとない。展望があるわけでもない。あくまで身過ぎ世過ぎである。

  たとえば芭蕉のような俳人が地方の数奇者や礼賛者、弟子達を頼り、家族を持たず、定住する家を持たず、地方や今なら世界を放浪し、気が向くと金満家の家庭に寄寓して講釈や芸を披露し幾ばくかの謝礼で生活の糧とすれば年収はかぎりなくゼロに近いであろう。

 そのような人というのは庶民からすれば乞食のように見えたかもしれない。

 そこで、或る人は次のように述べる。「そのような人に生活できる程度の年金が支払われる社会を実現することよりも、そのような人物が十分な知的敬意を以て遇される社会を実現することの方が、ずっと大切ではないかと思う」(@内田 樹)。

 その言や良し。

 選挙も控え、またぞろ騒がしい世の中で、しかし霞を食って生きていけるわけもない。アカショウビンに芭蕉の風雅と芸への執念があるわけでもない。でも霞を食って生きていければイイナァー、という衝動は常に働く(笑)のである。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月23日 (月)

精神分析の現在

 河合隼雄さんが亡くなられた。NHKの深夜の番組で河合さんの追悼番組の如きものが放映されているので、お話を見聞きしながら遅まきながら河合さんの「思想」とは何か、という問いを立てて思考してみる衝動に駆られた。アカショウビンは河合さんが関わられたユングに若いころ興味を持ちユングの著作には親炙した者だから河合さんの言説には、この30年間、気にかかっていた人だ。しかしメディアに登場する氏の言説は「表層的」で深層的な影響力には疑問を持ってきたのであることは明かしておきたい。しかしそれでも「表層的」な影響を無視することはできない、と思うのがアカショウビンの優柔不断なところである(笑)。そんないい加減な言説も河合さんなら許してくれるだろう、という「甘え」からアカショウビンは何事かを述べたい衝動に駆られるのである。

 いうまでもなく精神分析と宗教とは虚実皮膜の関係にある。山折哲雄さんという宗教学者との対話でも、そこが急所である。仏教の研究者である山折さんとの対話は短い時間で語り尽くせるものでもあるまい。

 アカショウビンも叔父の葬儀で家族の悲しみと親子、家族の感情の複雑さ、深みと宗教性といった事に思いを新たにした。

 河合さんが幾人かの対談相手と話をしながら、河合隼雄の「思想」というものが果たして明確に表出されているようにも思えなかった。それは「思想家」という位置づけと「分析家」としての役割のなかで彷徨っている人物という感がアカショウビンの印象だ。あくまで印象である。フロイトとユングが創設した「精神分析」という、それは「学問」と言えるものかどうかわからないし洋の東西でどれほどの「意味」をもつのか詳らかにしない領域の言説に関心を持続している者としては何事か述べておかなければならないと触発されるのである。フロイトとユングがドイツ文化圏のなかで創設しフランスでもジャック・ラカンらが継承した、それは治療体系という以上に「思想運動」といったほうが適切な言説に関わった者としてはその現在と帰趨を了解したいという衝動を抑えることはできない。

 この国には「京都学派」という知的な人々が存在する。それは先の大戦でも、それなりの役割を果たした。アカショウビンが関心を持つ保田與重郎も関西に在住し「京都学派」の論説とも関わりがなかったとも思われない。それは傍証が必要なテーマだが、これから少しは明らかにすることも必要だと思うのである。

 山崎正和さんとの対話は恐らく現代日本の政治状況を論じて急所と思われる会話が交わされている。その対話のなかで河合さんが「個人」と「宗教性」というキーワードを通して「国家」といった事も考えたい、というような話をされていたのはアカショウビンも共感する論点である。

 河合さんが患者と対話する時と各界の知識人との対話では位相が異なるはずだ。しかし、その「境界」を河合さんという人は治療医の経験から乗り越えようと努力精進された人だと思われる節がある。その辺りの「河合思想」というか「河合学」とも成りえる研究がこれから為されていくだろう。その言説には眼にふれる限りアカショウビンもコメントしていきたいと思うのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月14日 (土)

叔父の死

叔父は一昨日、病院で未明にひとり静かに逝った。叔母も従妹たちも臨終に間に合わなかった、と声を震わせた。アカショウビンが数日前、見舞いに行ったときは、とても話したりない、といった風情で途中から呼吸器を外し話しかけてきたのだ。眼光はしっかりしていて話すごとに病状や叔母や娘のことなど次々と話題が湧き出て話がとまらなかった。この様子では年内は持ちそうだ、と安心し病院を後にしたのだった。

 それから数日後に容態は急変し誰にも看取られずに逝った。深夜の1時過ぎに看護師(今はそう言うらしいが女性だろう)が声をかけたときはベッドに座っていて返事したという。それが午前3時過ぎに見回った時は既に亡くなっていたそうだ。叔父は夜中に目覚めて座っていたときに覚悟をしたのかもしれない。それは見事な最期のようにアカショウビンは直感した。

亡くなる前の夜には、几帳面で口うるさい叔父が叔母に、これまで悪かったと謝り、髯も剃り月代も整えながら丁重にお礼をしたという。その深夜の訃報を聞き叔母と従妹が駆けつけたときは眠るような姿だった、と午前7時前に電話をしてくれた従妹は嗚咽した。

数日前にアカショウビンと話したときには、医師が家族に病状が嵩じたときは延命処置をするかどうか聞いてきたという話を知り、延命治療などする必要はない、と言ってやったと気丈に話していたのだ。

  叔父は先の戦争で14歳くらいに沖縄への特攻に駆り出されるはずだった。子供の頃から母にはよく聞かされたものだ。母も祖父と昭和19年に船に乗っているところを米軍機から攻撃され17歳で危うく殺されるところだったと話していた。叔父は、ところが乗るはずの船が敵に沈められ死に損なった。その後、成人してからの叔父の仕事は祖父と同じ印刷業だった。アカショウビンの母方の祖父から引き継いだ印刷所は伯父と父が引継ぎ父も独立した。しばらくそこで父と共に働いたあと叔父も独立した。しかし創業のころはともかく、小さな島で競争も次第に厳しくなり50歳代の後半に仕事をたたみ上京した。しばらくは都内の印刷屋に勤めていたが倒産。その後は娘夫婦の住む千葉に移り孫の成長を楽しみながらアルバイトや叔母の働きで生活していたと聞いた。アカショウビンは、それほど親しく行き来するわけでもなかったが、母が上京したときや偶に会うときは、夫婦でよく旅行をしていると聞いた。昨年は人生の大半を過ごした故郷を夫婦で訪れ知人と旧交を温めてきたと話していた。人生の最後の予感はあったのかもしれぬ。

 葬儀は身内と友人たちだけの小じんまりとしたものだった。アカショウビンは、足の弱った80歳の母が千葉まで行くのを渋ったのに怒り、弟の葬儀に出ないとは何事か、と大阪から我が弟に連れてきてもらった。この何年か姉弟はケンカ状態だったのである。しかしやはり血を分けた姉弟だ。棺の前で義妹に声をかけ泣いた。姪やその子供達とも久しぶりに会い成長した姿に驚き声をかけた。棺の蓋を閉じる時に母や叔母、従妹たち、その夫や孫たちは激しく泣いた。特に今年、高校を卒業し大学受験に落ち予備校に通っているという長男の孫の泣き顔と声は率直で悲痛で哀れだった。やせ我慢のアカショウビンにはできなかった姿だった。

 数日前に会ってから、それにしても早すぎた死だった。もう一度くらいゆっくり話したかった。しかし話に聞く死に方は立派で見事だ、と思った。男として夫として父親として祖父として天下に誇ってもよい死に方だ、と心から思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月12日 (木)

求職の日々

 きのうは雨のなか職安へ。失業が認定され保険の給付は10月3日から。それまで餓えて果てることはないのかという不安もチラリ。対面し就職の相談にあたっていただいた初老の公務員は事務的に説明し5分程度で「それでは」。

 失業で生計の不安に立ち至ったのは18年ぶりである。あの頃とはこちらの体力も世の中の環境もまるで異なる。そういったことに、こういった状況に至ってはじめて気付き慌てる。求職者の顔つきや所作は即座にこちらに反映する。アカショウビンもまた落ち着かぬ失業者然としているのであろう。

 明日は雑事で都心へ出る。少しは未読の本も読まねばならない。本を読むヒマがあるのなら食うことを心配しろ、と何やら天の声も・・・。

 不眠の朝に昔の後輩に就職の相談をすると即座に社交辞令もあった。しかし他力ではならぬ、自力じゃよアカショウビン君!という喝!の声も何やら・・・。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月10日 (火)

日々は泡の如し

 毎日が日曜日というのも飽きるというのでは困る、と独り言をいいながら時に不安にかられる毎日だ。希望と計画と現実はかくも異なる。日々は泡の如しである。古人は「小人閑居為不善」と洞察した。生計が保証されなくなり不安が全身に満ちてきて時に思い起こす箴言ではある。

 自宅に籠るつもりはなかったがダラダラと日常は過ぎる。読むのを楽しみにしていた本やCD、DVDも期待のいくばくも読んでいないし聴いていないし観ていない。古人の洞察に甘んじるのは悟空でしかないということである。せめてお釈迦さんの掌を触知したいと心の隅で衝動は蠢くのだが現実は泡だ。

 国内政治の混迷と迷走は見るに耐えない醜態を曝け出している。パキスタンの事件も民間人の犠牲を承知で突入した酷いものである。そのような世界の現状は以前とどれほど異なるのか。太平日本も、またぞろ「いつか来た道」をあれよあれよと言ううちに辿るのか?そこには新たなカーキ色の閉塞社会が待ち構えている予感に囚われるのはアカショウビンだけだろうか?

 それにしても戦後から現在までの「平和」は国民にとっても国家にとっても世界史的にみれば珍しい時空であろう。人も自然も、そして国家も変化する。人の変化、自然の変化、国家の変化の様態の時間経過はそれぞれ異なる。それを見晴るかす場所を私は果たしてどのように構築し維持し虚存へ移行できるか。それがアカショウビンの現在に課せられている問いである。

 ある禅者は「滅きたらばこれ滅にむかひて(仕ふ)べし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ」と説く。しかし、それは果たして諦念なのか悟りなのか達観なのか?

  凡夫は韜晦する。

 先日、叔父が入院したという報を母から聴き千葉の病院へ行って来た。しばし前の仕事で何度か来た見覚えのある景色を懐かしみながらバスに揺られた。その病院の外観は都心の大学病院よりはこじんまりしているが中は廊下が広くガラス窓が大きく隔離されている息苦しさがなく、ゆったりとしている。4人入りの病室の簡素なシャッターで区切られたベッドに叔父はイヤーフォンを耳にしてパジャマ姿で弱々しく横向きにあちらを向いて寝ていた。腰を軽く掌でたたくとむっくりとこちらを向きぽかんとした表情のあと驚いたといった顔でゆっくり起き上がった。

 意識ははっきりしている。快活に話もする。電話で母から聞いた叔母の切羽詰った状態ではないことに安心した。しかし本人は腹を括っている。延命治療などしなくともよい、と女房と娘には言った、と淡々と話す叔父の視線は眼光もしっかりしていて未だ大丈夫だともふと思った。叔父は特攻隊で死ぬはずだったとアカショウビンが子供の頃に母は話していた。後に吉田 満の文章や島尾敏雄の小説を通し、その人生をアカショウビンも少しは想像の中で辿っている。70数年生きれば十分だろうが死は恐怖であろう。家族との別れに未練もあるだろう。娘も3人の子供の親になった。思い残すことは彼らの姿が消えていくということだ。しかし、それはこの世の常だ。次の世があるか知らぬが今生の生は生である。「いとふことなかれ。ねがふことなかれ」という達観があるいはあるのかもしれない。

 従妹や従兄にそのことで電話し久しぶりに声を聴いた。

 血縁とは何だろうと改めて思う。彼女や彼の声には懐かしい記憶が言葉の瞬間瞬間から脳裏に去来する。また同時にその声と記憶は現在の彼らと私の間で泡のように消えていく。

 光陰矢の如しという古人の言葉は痛烈である。明日は我が身と言う言葉も他人事ではない。「完全看護」だから「母ちゃん(叔母)も付きっきりでなくてもいいのよ」と話す従妹の説明の声を聞いて想い起こすベッドにちんまりと横たわる叔父の姿を見れば全身全霊で了知しなければならぬ人の姿である。

 夏。若い男や女は半裸の姿で哄笑し装い街を闊歩する。陽は地上をチリチリと焼き季節は移る。アカショウビンもいつか地上か海上に滑落し息絶える。その一瞬は果たして至福の時か後悔と絶望か。

 存在は川面を漂う水の粒子の如く淵にたゆたい、瀬に翻弄され、分解されて大気となって地球を見晴るかす。人の存在もかくの如しであろう。しかし魂魄はそのとき何処にあるだろうか。無いのか有るのか。

 叔父の命よ。泡であろうが、それは血を分け合った私との関わりを私は忘れることはない。母を通じてあなたの魂魄を私は記憶の中にひっそりと留めようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 6日 (金)

再開のお知らせ

 夏になると言いたいこと書きたいことがムラムラと湧き起こる。というわけで新装はできないがブログ名を変えて再開することにした。存在論と独仏思想、保田與重郎、小林秀雄についても書き込んでいくのでよろしく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »