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2007年5月29日 (火)

この世に棲むということ

 この世に棲む日々とは、また社会的差別と、仏教で業と言い習わす、過酷な苦しみを背負い生きる、ということでもある。この世とは何か、ヒトの生とは何か?

 先日、夕張の市民病院の閉鎖と、そこを引き受けた若い医師のレポートを見た。番組では、見捨てられる患者や高齢者と、病院を診療所として縮小し医療に取り組む医師の存在と、夕張という地方都市の現実に光があてられた。昨夜から深夜のテレビでは、この国の高齢者医療政策が大きく転換する実態のレポートとハンセン病の患者と家族の姿を追った番組を見た。そこでアカショウビンは、そういう、恐らく答えは千差万別で、それぞれに答えがあるとしか言えない問いを発さざるをえないのだ。

 ハンセン病の番組は、国家の、過酷な病への残酷な仕打ちに翻弄され生と向き合い生き続けた人々の存在を伝える。そこには他人に経験されない、患者や家族の生への残酷と過酷に発する呻き声が聴こえる。生命の重さとは何か。

 アカショウビンが読み直し、読み続けている保田與重郎という文人は、人の生命が地球より重いというのは嘘だ、と言い放つ。それは一つの理念であるだろうからだ。先の番組で、国家から見捨てられ過酷な生を強いられた人々の姿を視ていると、ヒトの生とは、国家という機構に翻弄される耐えられない軽さと言うしかない。保田の言説には保田という文人の確然とした思想が存在している。それは国家という機構の中で生きる存在でもあるヒトという生き物への冷然とした文人、思想家の眼差しだ。

 しかし、国家意志で断種させられ堕胎させられた人々の過酷な人生を生き、生きる人々の姿を垣間見るとアカショウビンは暫し蹲るしかない。この世とは、「差別」という言葉だけでは言い表わすことができない過酷な生を生き、生き続ける人々が、棲み、棲み続ける世界でもある。それは、仏教が業という視角で見晴るかそうとする娑婆世界と存在である。

 怠惰なアカショウビンの生もいずれ絶える。それは前にも用いた、現存から虚存という位相に移るということでもある。急場になれば、これから何度も、世に棲んだ日々とは何か、と思い煩うことだろう。それにしても人という存在は、そのような問いと絶えず向き合いながら生きざるをえない、厄介な存在であるにちがいない。

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