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2007年5月24日 (木)

太古の記憶

 ソニー・ロリンズが1966年に録音した「イースト ブロードウェイ ラン ダウン」というアルバムを聴いていると、このピアノレスコルトレーン・バンドでロリンズがコルトレーンという稀有の個性と張り合うような気迫でプレイしているのが面白い。タイトル曲は20分23秒の演奏であるが途中で何やらアフリカのジャングルの森の声を彷彿させるようなフレーズがある。それは黒人たちの記憶の中に潜む太古の記憶といった響きとも聴ける。

 フロイトが発見したとされる無意識という、それは概念というのか精神現象というのかフロイトが確立し極めたと思える精神分析という学問にサルトルは反発し無意識なんてものは存在しない、と応酬したのではなかったか。ラカンらのフランス精神分析学派の隆盛は現在フランスでどのように継続しているのだろう。デリダやフーコーの仕事にそれは反映されているようだが、そこで提出される「起源」というキーワードは人の太古の記憶とも関連しているようにも思われる。

 音楽を聴いて、そんなつまらない連想をするのはお門違い、という声が聞こえるような気配もするがアカショウビンはそういう人間である。精神分析はフロイトを継いだユングが更に一歩を進め集合的無意識という概念を提出した。それは或る民族に共通する無意識とでもいうものだ。そのあたりの段階で師のフロイトはユングと袂を分かったのではなかったか。性欲から大方の精神病を解釈するフロイトは若い俊秀の突っ走りを許容することが出来なかった、というのが通俗的な解釈だろう。しかし、それを更に高次な視点から視界を広げることが出来るのか、というのが跡に続く人々に託された仕事だろう。

 こんな事をあれこれ考えるのも「フロイト=ユンク往復書簡」という書物が最近文庫で刊行され興味深く読んでいるせいである。この師弟の専門的な研究のやりとりの過程と、終には決裂に至る過程を手紙で読むのはスリリングだ。

 ところでソニー・ロリンズである。アカショウビンが挑発され聴き惚れたのはロリンズのコルトレーンに対抗する気迫はさりながらジミー・ギャリソンのベースとエルヴィン・ジョーンズのドラムスである。1966年といえばコルトレーンが亡くなる1年前。モダン・ジャズをさらに突き詰めて孤高の境地に突入していたフリー・ジャズの世界で伝統から脱却しようと苦吟するとも聴こえるロリンズとコルトレーンの仲間たちの演奏にアカショウビンは挑発されたのであった。

 昨日、映画監督の熊井 啓さんが亡くなられた。氏の作品は学生の頃に「サンダカン八番娼館・望郷」(1974)が話題になりアカショウビンも池袋の文芸座地下で観た。「天平の甍」(1980)は大味でがっかりしたが社会派として手堅く仕事を続けられた作品は間歇的に観ることもあった。黒澤 明の脚本を映画化した「海はみていた」は健在ぶりが知られて黒澤へのオマージュとして面白く観た。最近はDVDで新藤監督、成瀬巳喜男、溝口健二の未見の旧作を観るのがアカショウビンのささやかな楽しみである。父親の世代の監督が次々と逝かれるなかで熊井作品も観直しながら日本映画の最盛期の作品を、世に棲む日々にしかと魂魄に留めておきたい。

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