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2007年4月20日 (金)

新たな倫理の可能性

 それにしても米国で韓国人学生の殺傷事件や長崎市長射殺事件を報道で見聞するなかで考えるのは米国社会に於ける銃所持受容の文化背景と暴力についてである。

 米国だけでなくヨーロッパまで、その思考をひろげれば、キリスト教文化が内在する社会の仏教用語で言えば業のようなものとも言える。

 アカショウビンは先日、遠藤周作や或るキリスト者を通してイエスやキリストについても考えを述べた。保田與重郎という文人を介して言えば、それはアジアや日本という國を対置させることも出来る。

 それは現在の世相にからめて言えば倫理とは何か、という問いとして提出することができよう。

 韓国人学生が残した映像のなかで吐き捨てたのは同僚の裕福な学生たちへの嫌悪である。それは貧しい、かつて竹内 好が述べた荒ぶる西洋と従順な東洋の図柄である(その文章はあえてここに引用しない)。それはまた韓国人という出自とアジア人としての欧米に対する違和と否定の言説だ。駘蕩と厳格の儒教文化のなかで育てられたであろう少年が異教社会のなかで懊悩した末に表現した言説は稚拙だが根本的な問いをも発していると聴ける。

 西洋の歴史の中で語り継がれ、考え継がれてきたイエスという男の苛烈な生き様は政治権力によって、それはまた、それを支持する人々によって磔刑という極刑で最期を迎えた。それは歴史として文字に残されることでその出来事はまるで次元の異なる位相に置き換えられた。この変換に鈍感であってはならないだろう。

ナチズムという西欧の歴史に深い傷となった出来事は彼の地で生きる人々には忘れられるべきでない事実として重く背負わされる十字架である。しかし、それは「人類」という進化した猿、あるいは人類と生物学的には分類されるのだろうが、その存在者の現今の生物学でいえばDNAに組み込まれた抜き難い不良品の如きものだろうか。実存的に言えば身体で悪性新生物として異常に増殖し時に死に至らしめるガン細胞のようなものとも言えるのか。

 その生き物の進化の過程で、それは果たしてどのように乗り越えられるだろうか、というのが現在に生きる私たち現存在の自己に課せられた課題であろう。

それが生じるのはキリスト教、ユダヤ教という宗教の影響下で暮らす人々が背負う「負債」あるいは、それを裏返せば「試練」とも「恵み」とも解釈される「場」だ。またそれは、それに反発する言説が応酬される時空間でもある。それはまたイエスという男が、歴史の或る時、あるいは或る瞬間に十字架を背負い、民衆から罵詈を浴び、礫を投げられ、「国家」によって、あるいは彼を憎んだ対立者達によって殺された、という「歴史」を読み、自らの生の血肉としながら生きている人々が住む「場」である。そこで問われるのは、その地で生み出された「倫理」が果たして私達が住む国やその周辺の国、あるいは、この惑星の反対側の地域でも通用するのか、という問いである。

 

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