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2007年4月 1日 (日)

少年の頃

 島尾敏雄という作家はアカショウビンが中学3年時に担任のM本先生が授業で話してくれて知った人だった。先の記事にコメントを頂いた泉君は中学時代の同級生。現在は栃木県のベテラン高校教師だ。泉君とは方向の違うI津部小学校に通っていたアカショウビンは島尾家の人々とはまるで関わりがなかった。泉君が島尾氏のお嬢さんのマヤさんをリアルタイムでからかったことがあるという話は初めて知った。それにしても「死の棘」に描かれる島尾家は凄いよね。歯車が壊れた家族の凄まじさを夫婦はよく乗り越えることができたと思うよ。それは何なのか。

 「家族の崩壊」といった論客の惹句を一時期、雑誌等で散見した。金満大国の中で何かが崩れている。その原因は、それまで日本の優れた文化土壌の基礎として存続し続けた「家族」の「崩れ」として現われている、と読んだ。それはまた別で論じるべきテーマだが。

 島尾氏が図書館の館長をしていた頃の姿はアカショウビンも帰省した時に拝見したような記憶がある。1969年から1973年の間ではなかったろうか。

 その後も島尾敏雄という作家はアカショウビンにとっても同時代で気になる作家だった。学生時代か社会人になってからだろうか総武線の飯田橋辺りの車内で目の前の憂い顔の人が島尾氏だったのは間違いないと思う。その頃は氏の写真を文学雑誌などで様々な角度から撮った写真で知っていたから。

 島尾敏雄より年下だが戦中派という括りでは同世代といってもよいだろう吉本隆明さんの島尾敏雄論も読み戦中派の抱える国家の歴史との相克も自分なりに思考していたアカショウビンには少年時代に同じ時空間で生きた人として興味深く関心を持続してきた人だった。学生時代には開高 健という作家に入れ込んでいたアカショウビンは開高のエッセイで島尾敏雄との交遊も知った。

 この国独特ともいえる「私小説」という批評家からは蔑まれもする日本的なジャンルの境界の中で氏は作品を紡いできた。その作品は開高 健や若い後輩からも畏敬の念を抱かれていた筈だ。氏は戦時中の覚悟と併せて戦後の生き方は左右両翼の陣営が相克するなかで独自の場を維持し続けてきた。それは、薩摩から台湾まで繋がる南島を琉球弧(ヤポネシア)と概念化したことでわかる。悲壮で過酷で倒錯的とも評される先の大戦を経験した兵士が作家として、ひとつの家族の夫として父親として葛藤してきた証がそこには読み取れる。

 こうして往時を振り返ると泉君という他人行儀の呼び方は止めて対面したときのように辰朗と呼ばせてもらうよ。我々が生まれ成長した少年時代の記憶は幸せな時間だったと半世紀を過ぎて生きて改めて実感するね。恩師のM本先生や友人のS次郎は事故や病で亡くなっていった。思い出を共有できる人たちは年と共に少なくなっていくのはこの世の習いだ。しかし中学から高校生の頃に経験した体験と記憶は我々の一生の方向を定めたのだな、という感慨にもふけるよ。故郷での経験と記憶は異郷で暮らしながらも死ぬまで忘れることはないだろう。

 辰朗が高校時代に県立図書館の分館長を務めておられた島尾敏雄の読書会に参加したという話は初めて知ったよ。そういえば先日は島尾氏のご長男伸三さんのお嬢さん(しまおまほ)が、お父さんに買ってもらったカメラで街の風景を撮っている番組も見た。島尾夫妻のお孫さんも祖父母の才覚を受け継いでおられるのではないかと興味深く見た。確かに血は水よりも濃いのかもしれないね。

 アカショウビンも何とか生きている。疎遠の同窓生たちとこれから何度再会できるか知れない。冥土へ旅発つ前にU田先生もご招待して久しぶりに同窓会もやりたいがどうだろうか?

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