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2007年4月23日 (月)

先ずはめでたし

 高校の同窓のM永君が区議選に当選した。50を過ぎて政治の世界に入るとは思っていなかった、とは本人の言であるが先ずは喜びたい。当選したということは支持者がいるということだ。そこに濃淡はあれど彼らへの責任が生じる。政治の世界とは極点まで辿れば先の長崎市長のように命がかかってくるということでもある。まぁ、区議でそこまで恨みをかうこともないだろうが油断は禁物。心して区民のために奮闘努力することを期待する。

 話は違うがS経新聞で吉田松陰の「伝記」の如き記事が連載されている。アカショウビンは別紙を購読しているので、たまたま駅売りで買って以来、途中からだが興味深く読み続けている。数年前に「留魂録」を読み深く感銘した。県の南北で風土は異なるだろうがM永君は山口県の出身である。松蔭の志と精進を範とされんことを重ねてご期待申し上げる。

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2007年4月20日 (金)

新たな倫理の可能性

 それにしても米国で韓国人学生の殺傷事件や長崎市長射殺事件を報道で見聞するなかで考えるのは米国社会に於ける銃所持受容の文化背景と暴力についてである。

 米国だけでなくヨーロッパまで、その思考をひろげれば、キリスト教文化が内在する社会の仏教用語で言えば業のようなものとも言える。

 アカショウビンは先日、遠藤周作や或るキリスト者を通してイエスやキリストについても考えを述べた。保田與重郎という文人を介して言えば、それはアジアや日本という國を対置させることも出来る。

 それは現在の世相にからめて言えば倫理とは何か、という問いとして提出することができよう。

 韓国人学生が残した映像のなかで吐き捨てたのは同僚の裕福な学生たちへの嫌悪である。それは貧しい、かつて竹内 好が述べた荒ぶる西洋と従順な東洋の図柄である(その文章はあえてここに引用しない)。それはまた韓国人という出自とアジア人としての欧米に対する違和と否定の言説だ。駘蕩と厳格の儒教文化のなかで育てられたであろう少年が異教社会のなかで懊悩した末に表現した言説は稚拙だが根本的な問いをも発していると聴ける。

 西洋の歴史の中で語り継がれ、考え継がれてきたイエスという男の苛烈な生き様は政治権力によって、それはまた、それを支持する人々によって磔刑という極刑で最期を迎えた。それは歴史として文字に残されることでその出来事はまるで次元の異なる位相に置き換えられた。この変換に鈍感であってはならないだろう。

ナチズムという西欧の歴史に深い傷となった出来事は彼の地で生きる人々には忘れられるべきでない事実として重く背負わされる十字架である。しかし、それは「人類」という進化した猿、あるいは人類と生物学的には分類されるのだろうが、その存在者の現今の生物学でいえばDNAに組み込まれた抜き難い不良品の如きものだろうか。実存的に言えば身体で悪性新生物として異常に増殖し時に死に至らしめるガン細胞のようなものとも言えるのか。

 その生き物の進化の過程で、それは果たしてどのように乗り越えられるだろうか、というのが現在に生きる私たち現存在の自己に課せられた課題であろう。

それが生じるのはキリスト教、ユダヤ教という宗教の影響下で暮らす人々が背負う「負債」あるいは、それを裏返せば「試練」とも「恵み」とも解釈される「場」だ。またそれは、それに反発する言説が応酬される時空間でもある。それはまたイエスという男が、歴史の或る時、あるいは或る瞬間に十字架を背負い、民衆から罵詈を浴び、礫を投げられ、「国家」によって、あるいは彼を憎んだ対立者達によって殺された、という「歴史」を読み、自らの生の血肉としながら生きている人々が住む「場」である。そこで問われるのは、その地で生み出された「倫理」が果たして私達が住む国やその周辺の国、あるいは、この惑星の反対側の地域でも通用するのか、という問いである。

 

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2007年4月12日 (木)

名人戦

 今年の将棋名人戦の対局者は同年齢である。名人森内、挑戦者郷田共に36歳。久しぶりに常連の羽生でも佐藤でも谷川でもないダークホースが登場した。昨日の夜に7番勝負の第1局が終わり挑戦者勝ち。面白くなった。長丁場の戦いは緒戦を終えたばかり。両者の渾身の戦いを楽しませていただこう。

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2007年4月 7日 (土)

映画寸評

 ここのところDVDで観たなかでは「かもめ食堂」が評判に違わぬ佳作だった。映画館まで足を運んだ「マリー・アントワネット」は何と女性客が8割くらい!仕上がりは悪くないけれど、あれで歴史事実を知ろうとする観客は何割いるだろうか。余計なお世話だろうけど。「バルトの楽園」も大味の感が否めない。カラヤンの第九を使ったのは商業主義で許すとして予定調和的な物語が予想と違わなかったのが残念。「明日の記憶」はなかなか。このシリアスな作品も渡辺 謙の好演が作品を支えている。「硫黄島からの手紙」と並行して出演していたのだろうか?「ラスト・サムライ」「サユリ」「硫黄島からの手紙」と観てきて、今もっとも充実した役者生活を生きておられる俳優と拝察する。

  「亀は意外と速く泳ぐ」は新感覚というところか。フーン、ホーホー、オットットットと脳髄が反応した(笑)。主演の上野樹里の味を生かした好作。「かもめ食堂」のさわやかで本格的な凝り方とは対極の笑いが今風。「茶の味」にも通じる。エンディングは「かもめ食堂」と同じ構成。これは決して独創ではないような。オリジナルは米国製か?

 この「遊び」の精神は賛同する。この精神の水脈は日本映画史に確かに存在する。たとえば岡本喜八。「肉弾」、「独立愚連隊」など戦中派が戦争を描いて「遊び」と「諧謔」に満ちている。それは鈴木清順にも通じる。喜八とは異なり清順にはシュールさがある。三木 聡という監督の作品も今風のシュールというところを俳優達やスタッフが面白がって作品が出来上がっている。決して重くならず、軽やかに日常を笑う、その精神を言祝ごう。

 ところで「かもめ食堂」。料理のシーンを扱う手際に女性らしさが感じられる。アカショウビンは伊丹作品を想い起こした。あの作品は何だったか。料理へのこだわりが面白かった。映画で男と女の性差は料理のシーンを扱う手際に如実に現れる、というのは定理なのではないか?「かもめ食堂」は小津安二郎的慎ましさを保ちながら全編をまとめていたのが花丸だった。海外にも小津派がいる。ジム・ジャームッシュも確かそうだったはず。「ブロークン・フラワー」は小津調が随所に見られたが少し期待はずれ。

 「かもめ食堂」に好感が持てたのは全編ヘルシンキ・ロケという宣伝はともかく画面に北欧の空気と風を感じさせる光線を映像化し得たと感じさせたところだろうか。ハリウッド映画に食傷している者としては、こういう穏やかな台詞と、こだわりが伝わってくるキャメラの映像は実に好もしい。特筆すべきはエンディング曲。井上陽水の「クレイジーラブ」が素晴らしい効果!監督のセンスに激しく同意。陽水の声の何と軽やかで強靭ですてきなこと!音と映像の掛け算(@黒澤 明)という映画の面白さを見事に最後の曲の選択でまとめたセンスに快哉。

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2007年4月 1日 (日)

少年の頃

 島尾敏雄という作家はアカショウビンが中学3年時に担任のM本先生が授業で話してくれて知った人だった。先の記事にコメントを頂いた泉君は中学時代の同級生。現在は栃木県のベテラン高校教師だ。泉君とは方向の違うI津部小学校に通っていたアカショウビンは島尾家の人々とはまるで関わりがなかった。泉君が島尾氏のお嬢さんのマヤさんをリアルタイムでからかったことがあるという話は初めて知った。それにしても「死の棘」に描かれる島尾家は凄いよね。歯車が壊れた家族の凄まじさを夫婦はよく乗り越えることができたと思うよ。それは何なのか。

 「家族の崩壊」といった論客の惹句を一時期、雑誌等で散見した。金満大国の中で何かが崩れている。その原因は、それまで日本の優れた文化土壌の基礎として存続し続けた「家族」の「崩れ」として現われている、と読んだ。それはまた別で論じるべきテーマだが。

 島尾氏が図書館の館長をしていた頃の姿はアカショウビンも帰省した時に拝見したような記憶がある。1969年から1973年の間ではなかったろうか。

 その後も島尾敏雄という作家はアカショウビンにとっても同時代で気になる作家だった。学生時代か社会人になってからだろうか総武線の飯田橋辺りの車内で目の前の憂い顔の人が島尾氏だったのは間違いないと思う。その頃は氏の写真を文学雑誌などで様々な角度から撮った写真で知っていたから。

 島尾敏雄より年下だが戦中派という括りでは同世代といってもよいだろう吉本隆明さんの島尾敏雄論も読み戦中派の抱える国家の歴史との相克も自分なりに思考していたアカショウビンには少年時代に同じ時空間で生きた人として興味深く関心を持続してきた人だった。学生時代には開高 健という作家に入れ込んでいたアカショウビンは開高のエッセイで島尾敏雄との交遊も知った。

 この国独特ともいえる「私小説」という批評家からは蔑まれもする日本的なジャンルの境界の中で氏は作品を紡いできた。その作品は開高 健や若い後輩からも畏敬の念を抱かれていた筈だ。氏は戦時中の覚悟と併せて戦後の生き方は左右両翼の陣営が相克するなかで独自の場を維持し続けてきた。それは、薩摩から台湾まで繋がる南島を琉球弧(ヤポネシア)と概念化したことでわかる。悲壮で過酷で倒錯的とも評される先の大戦を経験した兵士が作家として、ひとつの家族の夫として父親として葛藤してきた証がそこには読み取れる。

 こうして往時を振り返ると泉君という他人行儀の呼び方は止めて対面したときのように辰朗と呼ばせてもらうよ。我々が生まれ成長した少年時代の記憶は幸せな時間だったと半世紀を過ぎて生きて改めて実感するね。恩師のM本先生や友人のS次郎は事故や病で亡くなっていった。思い出を共有できる人たちは年と共に少なくなっていくのはこの世の習いだ。しかし中学から高校生の頃に経験した体験と記憶は我々の一生の方向を定めたのだな、という感慨にもふけるよ。故郷での経験と記憶は異郷で暮らしながらも死ぬまで忘れることはないだろう。

 辰朗が高校時代に県立図書館の分館長を務めておられた島尾敏雄の読書会に参加したという話は初めて知ったよ。そういえば先日は島尾氏のご長男伸三さんのお嬢さん(しまおまほ)が、お父さんに買ってもらったカメラで街の風景を撮っている番組も見た。島尾夫妻のお孫さんも祖父母の才覚を受け継いでおられるのではないかと興味深く見た。確かに血は水よりも濃いのかもしれないね。

 アカショウビンも何とか生きている。疎遠の同窓生たちとこれから何度再会できるか知れない。冥土へ旅発つ前にU田先生もご招待して久しぶりに同窓会もやりたいがどうだろうか?

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