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2007年3月29日 (木)

はべら

 「島ノ唄」という伊藤 憲監督の映像ドキュメンタリー作品を観たのは昨年の8月6日だった。そこでアカショウビンは初めて島尾敏雄夫人のミホさんの姿を映像で拝見した。きょうの朝刊にミホさんの訃報が報じられていた。25日に脳内出血で亡くなられていたのが発見されたという。

 その作品を観たかったのは、島尾作品に描かれる奄美の加計呂麻島での出会いの可憐さから、結婚後の壮絶な愛憎生活で描かれるひとりの女性の姿が一目見られるという、ただただ好奇心からだった。作品の宣伝によると詩人の吉増剛造さんが島尾ミホさんと話している、という。アカショウビンは、島尾作品のファンだという会社の後輩の若い女性からそれを知らされて昨夏、東中野の小さな映画館へ観に行ったのだった。島尾敏雄夫人としてのミホさんのことは島尾ファンならずとも作品を読めば知りたく思うはずだ。1986年に敏雄氏が亡くなられたあとは常に喪服で暮らしておられるとも伝え聞いていたから余計に興味を掻き立てられた。

 海辺で吉増氏と語り合いながらミホさんは、蝶のことを奄美では聖なる存在と見なして、蝶に出会うと、お辞儀をします、といった話をされていた。蝶を「はべら」あるいは「あやはべら」ともミホさんが生まれ育った加計呂麻では呼んでいたと言う。それは三角の徴で着物や住まいの中に折り込まれ表現されている、とも語っておられた。

 吉増さんの願いに応じてミホさんの母親が唄ってくれたという「子守唄」を唄う。歌詞の大意と部分的な単語はアカショウビンにも聴き取れたが内地の人には全く異国語としか聴こえないだろう。しかし折口信夫の明察では琉球語と日本語は同族語で奄美の言葉もそれは同様であるのだから、内地の人も聴き取る意志があれば、ミホさんの声を通じて、それは言霊というしかないものは伝わるのかもしれない。

 あの作品は奄美の空の風景を見事に撮りきっていた。台風銀座と呼ばれる奄美の千変万化する空の美しさと面白さをキャメラはよく捉えていた。それは、おそらく奄美で生涯を閉じた孤高の画家、田中一村も魅了された空と思われる。

 新聞の片隅の記事でミホさんが家族に看取られることなく、お一人で逝かれたというのが知られアカショウビンはミホさんの死が一村の死の姿とも重なり、人それぞれの臨終の異相に改めて瞑目した。

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コメント

朝刊で島尾ミホの訃報記事を読みながら、アカショウビンが何か書くなと直感した。
幾つだったか記憶は定かでないが、おそらく鼻をたらした小学校の低学年の頃だろう、アカショウビンも知っている旧住吉町(現古田町)の家から名中へ向かって百メートルほど先に島尾敏雄の家族が住んでいた。暑い季節だと思うが、ミホ夫人が白い着物に日傘をさして歩く姿を見たことがある。その細身で楚とした姿に奄美の女性とは異質の高貴と言うか品をガキながら感じた記憶がある。長男の伸三さんも我々島っちゅとは雰囲気がちがっていた。(現在は写真家として活躍していることを、中央公論の復帰50周年の特集記事で読んだ。)長女の摩耶さんは亡くなったそうだが、島の方言で猫をマヤと言うが、マヤ・マヤとあの頃の悪ガキは囃し立てたものだ。誠に申し訳ないことをした。反省しきりである。後年、島尾敏雄は県立図書館の奄美分館の館長を勤められ、時に読書会の講師もしておられた。大高生の時に一度その末席を汚したことがあった。思えば身近に大変な人がいたものである。

投稿: 泉 辰朗 | 2007年3月30日 (金) 午後 01時56分

トシオが亡くなって、その後20年もミホさんがお一人で生きていらっしゃったこと。
誰にも気づかれず、お一人でこの世を発たれたこと。
心に刻んでおきます。

投稿: ワコウ | 2007年10月 3日 (水) 午後 10時09分

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