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2007年3月 4日 (日)

キリスト者とは?

 日曜日は仕事が気になり会社へ行かねばと思うがアルコールを体内に注ぎながらテレビを見ていると時はいつのまにか過ぎてゆく。朝の音楽番組、将棋、囲碁と見てしまうのである。

 きょうもNHK杯囲碁の準々決勝戦を見たあとに「こころの時代」という番組を続けて見ていると何か書いておかねばならぬと触発された。

 番組は宮田光雄さんというキリスト者を取材している。南原 繁に学んだというのは丸山眞男とも親交があったのではあるまいか。氏は南原教授の最終講義を聴かれたという。それが氏の人生で決定的な影響を受けたという。戦後の丸山の仕事も当然強く意識されて同時代を生きたであろう。日本人のキリスト者として生きるということは丸山眞男とは異なる思想を持つということである。南原 繁の精神(ガイスト)に触発されるということはアカショウビンの先の「精神とは?」という問いとも呼応する。

 南原教授がカント学を追求し宮田氏がドイツ政治思想史を選択したのちキリスト者としてナチズムの研究を続けたというお話は興味深い。ヒトラーの思想にもキリスト教思想が反映しているという視点はドイツでも未だ明確にされていないのではないか?カール・バルトが「地上のものを一切絶対視しない」という視角で聖書を通して思索を続けたことは仏教徒であるアカショウビンも強い関心を持つ。

 バルトはボン大学の教授として「ハイル・ヒトラー!」を拒否し職を追われたという。極東の島国に生きるアカショウビンもナチズムはハイデガーやフルトヴェングラーとも関連しながら未だに関心を持続している歴史的事実である。ヨーロッパにおけるナチズムへの深い関心は十数年前にクロード・ランズマン監督の「ショアー」という映像作品でアカショウビンも確認した。

 番組で「私は生かされた」と言う宮田氏の言葉はキリスト者だけでなく宗教的経験を持つ者には共通の感慨であろう。仏教徒やイスラーム教徒も恐らくそうであろう。カント以来の近代西洋哲学では「超越」という認識がそれであろう。そこで哲学と宗教はどのように異なるのか?それは未だ明確に解決されていないのでなかろうか?

 アカショウビンは道元、日蓮、親鸞等の思想を通じて仏教というか仏教哲学に親しんでいる者だが聖書の文言にも触発される者である。そこで宗派を超えた理解とは何か?という問いも発したくなる。

 宮田氏が「イエスさま」「平等」という言葉を発するときに、その根拠は果たして宗派を超えているのであろうか、という問いも湧き起こる。

 ナチズムの研究を通して現代と切り結ぶ宮田氏の思索はどれほど現実と相関しているのであろうか?

 その思索は政治思想学者として日本国憲法の是非にも踏み込む。それは左右両翼の論客も耳を傾けねばならない意味を持つであろう。

 バルトが1968年に亡くなる夜に次のように友人と電話で話したという。

 「世界は暗澹としているが意気消沈だけはしないでおこうよ。この世に支配する方がおられる。しかも全世界にだよ。神が支配の座についておられる。(中略)神は見捨てたまいはしない(取意)」。翌朝バルトは奥さんがいつものようにモーツァルトの音楽を流しても起きてはこなかったという。「神の大いなる肯定」とも宮田氏は述べる。

 この番組の中で宮田氏が言及しなかったのはハイデガーである。宮田氏はハイデガーの思索をどのようにお考えなのかがアカショウビンの関心である。

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