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2007年3月 7日 (水)

キリスト者とは?(続き)

 アカショウビンがキリスト者として想い起こすのは遠藤周作である。高校から大学の頃に読んだ小説の中で遠藤周作というカソリック小説家は出自に対するコンプレックスが裏返しとなって「狐狸庵もの」を書いていたはずだが、どこかの文学誌の対談で三島由紀夫が「何であなたは、あんなつまらないもの書くの?(取意)」と訊ねられていたのが面白かった。

 遠藤周作独特のバランス感覚と生真面目な三島の対比が良く出ているエピソードと思った。

 遠藤の「沈黙」は日本文学の中でも高く評価された作品である。その後もキリスト者として生きた遠藤が世に出した「イエスの生涯」と「キリストの誕生」には聖書学者からの痛烈な批判もあった。

 田川健三氏の遠藤批判の急所は遠藤に届いたのであろうか?また雑誌等や公の場でやりとりがあったのであろうか?どなたかご存知の方がいらっしゃれば、お知らせ頂ければありがたいのだが。

 イエスあるいはキリストを思索するうえで日本という國で、また現在のバチカンや世界中の教会で、そのイエス像、キリスト像は日本では島原の乱の頃から現在まで、どのように変貌しているのかアカショウビンは詳らかにしない。しかしハイデガーが対決した近代西洋哲学と「西洋の運命」という問いと回答のなかで俎上に上げられたキリスト教が、現在のキリスト者たちにとっても黙殺することが不可能な思索であることは戦後のフランスやドイツの思想界を垣間見れば或る程度は読み取れる。

 欧米を通底するキリスト教文化の命脈はどれほどあるのだろうか?という問いはどの程度に現在の政治情勢を含んだ「世界」と共振しているのか?それはアカショウビンにとって追求してみる誘惑に駆られる問いであり現象だ。キリスト教神学やイエス観も田川氏の指摘によれば(「宗教批判をめぐる」(2006年 洋泉社))この二、三十年で独仏や日本でも大きく変貌してきているという。

 この國の靖国論争や本居宣長以来の国学思想と絡めながら眺めることは面白そうだが、保田與重郎も集中して読みながら神道論については随時書いていくつもりだ。宮田氏や田川氏の論考、聖書にもあたりながらイエスとは?という問いの回答を出していくこともあるだろう。

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