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2007年3月24日 (土)

60年前の権力闘争

 バッハから武満 徹までの限られた作曲家や指揮者がアカショウビンの楽しむ「クラシック」音楽だが、その導きの糸となったのはフルトヴェングラー、ワルター、クナッパーツブッシュといった今や神格化されてもいる巨匠達の演奏だった。特にフルトヴェングラーの録音には高校生の頃から未だに傾倒し、たまに棚から引っ張りだして聴き続けている。当時の水先案内人のトップは宇野功芳氏。氏はじめ評論家諸氏の演奏評を頼りに鬱蒼たるヨーロッパ音楽の森へと分け入ったのだった。氏が推奨するフルトヴェングラーの音楽は確かに凄かった。己の精神というのか魂というのか、物心がつきはじめた少年の心をムンズと掴んだのである。

 その戦前、戦中、戦後の演奏はともかく、ナチスとの確執も公になっていて戦前から戦後のヨーロッパ史と絡めてアカショウビンには、未だにハイデガーという哲学者の生き方と哲学と共に関心の的なのである。

 そのフルトヴェングラーとカラヤン、チェリビダッケという戦後の「クラシック」音楽界の巨匠たちの確執を活写した「カラヤンとフルトヴェングラー」(中山右介著 2006年1月10日 幻冬舎新書)という本を興味深く読んでいる。

 アカショウビンはアンチ・カラヤン、アンチ・トスカニーニ派だ。それはともかく同書で描かれるフルトヴェングラーやカラヤン、チェリビダッケの姿は正にナチズムに翻弄された「偉大な」音楽家たちの凄まじい権力闘争というのがこの本の通奏低音である。

 クラシック音楽界では神格化されているフルトヴェングラーも、この書のなかでは若いライバル(カラヤン)を徹底して蹴落とそうとする旧世代の権力亡者というのが少しガッカリ。

 今もウィーンやベルリンはそうなのであろうか。多分そうだろう。しかし音楽と政治は別物、というフルトヴェングラーがナチスと己の生をかけて抵抗し問うた(それは一人よがりというのが丸山眞男や中山氏はじめ大方の識者の認識のようだが)は既に解決済みとも思われない。ウィーン国立歌劇場の音楽監督の我らが小澤征爾氏は大丈夫だろうか。昨年はじめに健康は回復したと伝えられたが魑魅魍魎の暗躍するらしい彼の音楽界で小澤氏もまた権力闘争の渦中で疲弊しておられるのではないか?

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