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2007年2月19日 (月)

などて痴漢たかが痴漢

 周防監督の新作を観てきた。「それでもボクはやってない」。土曜日の雨模様のなか銀座の劇場は満員の盛況だった。しかし、とアカショウビンは見終わって思ったのである。テーマは、たかが痴漢、されど痴漢であろう。しかし何ゆえ痴漢なのだろうか、という疑問に答えは万別であることは直感で予測される。そこは、かなりの想像力を必要とするであろう。所詮、馬鹿男にはわからないのよ、という女性側の声。たかが痴漢を何で主題にするのか、といった声もあろう。

 アカショウビンは男であるから痴漢の心理を想像できなくはない。それは極限まで辿れば「暴力」という概念と現象に到達する筈だ。被害者の女性からすれば、それは異性の暴力以外の何物でもないと推測される。欧米の観客にも通じる「暴力」を映像に定着した作品は我が邦では北野 武氏の作品がある。しかし、この痴漢映画は、どのように欧米の観客に理解されるだろうか?それはこれからの見物である。

 アカショウビンは周防監督の才覚には一目も二目も置く者である。しかし、と思うのである。敢えて言わねばならぬ。裁判劇で日本映画は未だ幼児の段階からいくばくも出ないレベルである、と。

 アカショウビンは思い出す。「死刑台のメロディ」(1970年 ジュリアーノ・モンタルド監督) という作品を。そこには「ミシシッピー・バーニング」(1988年 アラン・パーカー監督)と並ぶ米国という国の実情を異国の民にも激しく迫る凄みと挑発があった。残念ながら周防監督に、その切迫感はない。それは確かに無い物ねだりではあろう。しかし作品の細部からそれは感得できなくはない。それは国家権力の恐ろしさと威力の凄まじさは、こんなものなんだよ、とでも伝えようとしているのかと思わされる、作品の中では前半の描写で表現されるメッセージとでも言えばよいだろうか。役所氏演ずる弁護士が声を荒げるワンカットは抑制されている全体のトーンのなかで破調になる。それが成功しているとアカショウビンには思えなかったが。しかし、そこは小津安二郎の衣鉢を継ごうかという周防監督である。少しチャメしてしまいました、と苦笑いしているかもしれない。

 この作品は意表をついている。しかし、とアカショウビンが思うのも、やっぱり古ーい!オヤジ感覚よねぇ!といった女性の蔑みのほうが当っているやもしれない。何が観客の共感を得ているのか?名作の価値は時の経過によっても試される。

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