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2007年1月17日 (水)

林住期

 インド人の死生観によれば、齢60を過ぎれば森に入り、世間とは一線を画し生きる「林住期」というときではなかったか。それはインド人の智慧とでもいうべきものに思われる。インド人だけでなく現在の日本人のアクセクした生にも、それは何やら示唆的である。ある人は60歳を過ぎてからでなく50歳を過ぎたら、それまで仕事や家族のために費やしてきた人生から離れて、自分の好きなように生きる時にしたほうがよい、というアドバイスもしている。

 先の書き込みで引用したあるブログ氏の「ここまで大きな事故にも遭わず、死病にも罹ることなく戦乱や暴動にも遭遇することなく、飢餓にも悪疫に罹ることなく生き延びられた。地球上60億人類同胞の中で私のような平坦な人生を生きられた幸運な個体はおそらく全体の5%にも満たないであろう」というご指摘は日常生活の慌しさのなかでストンと忘れがちな賢察である。

 世界有数の長寿社会に入ったこの国では「老い」が国家運営のうえでも重要な意味をもってきている。「団塊の世代」の定年「問題」というのは、それと関連しているだろう。

 車椅子に頼らなければ移動もままならぬ状態になるお年寄りには「老い」とう現象は切実さを帯びて迫っているはずだ。吉本隆明さんもその一人。多くの人々とは異なり、その思索力は往年のものとは異なる世界に分け入って旺盛な力をもっているようにも見える。聞き書きという著書「ひきこもれ」(2002年2月 大和書房)という本(2006年12月15日文庫化)もなかなか面白く読んだ。副題は「ひとりの時間をもつということ」。自分もひきこもりだった、と述べて引きこもることを社会的通念とは異なる視点から独特の考えを展開している。「子供の自殺は親の代理死である」というのはギョッとさせられる鋭い指摘だ。

 そこでは「死」というものとも向き合っているご本人の考えが開陳される。

 「死というのは、生まれて、成長して、老いて・・・・というプロセスの最期にあるものではないということです。 生まれた時から死ぬ直前までを見渡せる、そういう場所にいるのが死であって、老いの次に死が来るなどということはないのだということを、ぼくが好きだったフーコーという哲学者などは言っています」(同書p119~120)

 アカショウビンも齢50を過ぎて森のなかにわけいり、晴耕雨読といった生活でも送りたいが、なかなかそうもいかない。友人は会社を起し、やる気満々。お前も弱気になってばかりいないで元気出して協力せい、とうるさい。同窓生は病で果てた者もボツボツでてきているが多くはやる気満々。アカショウビンのような輩は情けない退嬰的危険分子として、かつてのどこかの国だったら同志・公衆の面前で自己批判されかねないところだろう。それからすると今の日本は病的でもあるが、お気楽なところがある。それはまんざら非とすべきところではないとも思うのである。

 小澤氏や大江氏のように、自らの仕事で得たあるいは到達した境地を次の世代に伝えるのに元気いっぱいな人々も少なからずいる。「団塊の世代」の人々のなかにも、そういった人はいると思われる。

 そこでアカショウビンはどう生きるのか、それが問われているわけだ。ところが正月はテレビを見ながら飲んでは寝入り、覚めては飲み、CDで文楽・志ん生・円生の名人達の噺を聴きながら夢の中で登場人物たちに交じり夢現。DVDでは名作・駄作・凡作を見ながらのダラダラ生活。言うは易く、である。

 しかし、もう少し何とかはしたい、というのが正直なところ、としておこう。

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