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2006年12月21日 (木)

死に果てた者たちへの負い目

 E・レヴィナスの著作を読んでいると、それは哲学というより「教説」というように読める。独特の術語を日本語に置き換える無理もそこにあるだろう。しかしその思索は仏教的な「悟り」にも似た境地が色濃く漂う長広舌のように響く。

 レヴィナスは先の大戦でナチスに殺戮されたユダヤ人の生き残りである。戦後はフランスで哲学教師として天寿を全うした。ドイツではハイデガーの講義も聴きフッサール以来のドイツ現象学の衣鉢を継いだ著作はフランス語で残されている。その戦後の思索はユダヤ教・ユダヤ文化やフッサール、ハイデガーに導かれたソクラテス以前のギリシャ哲学への射程も有する。その言説の底に読み取れる呻き声とも聴ける響きは虐殺された同胞たちへの負い目である。

 人は自らが死ぬべき生き物であることを覚悟し心情を文字に残す。哲学者や作家であるを問わず、戦争や病で市井の死にゆく者達が生き残る者たちへ何事かを託す。殺戮されたユダヤ人たちもそうであったろう。

 「硫黄島からの手紙」の冒頭とラストシーンは、地中から出現した死者たちの手紙である。監督には死を覚悟した者たちのメッセージへの共感と驚愕が作品のモチーフになっていると思われる。彼らの痛切な思いが家族や友人、知人たちに託される。そこには恐らく人間感情の根底的なものが網羅されている。その事実にC・イーストウッド監督は共感した筈だ。映画手法としては特に斬新というわけでもない。しかし台詞を日本語で統一したのは監督にとっても不安だったに違いない。それを克服したのは主演の渡辺 謙はじめ日本人スタッフの健闘と監督との信頼関係とでもいうべきものだろう。その度量と手法を用いた監督の力量のよってきたる知性を賛嘆しよう。先のブログでの不満は微かなキズと見過ごすことができなくもない。しかし作品の完成度はそこで殺がれるとアカショウビンは思ったのだ。それは日本人スタッフと米国スタッフの溝とも読めよう。

 しかしながらC・イーストウッドという監督の真骨頂は「死への眼差し」を深く湛えているところだ。それは前作の「ミリオン・ダラー・ベイビー」でも了知した。死を覚悟する生き物としてのヒトへの好奇心と敬意がそこにはある。76歳という年齢を経てこそ成し得た仕事ともいえる。わが邦では黒木和雄がその境地を作品に残した。

 ところでレヴィナスである。カント以降の近代西洋哲学の渦中でハイデガーを介し、それを超克すべく繰り広げられる「哲学」は難解だが興味深い。アカショウビンは小林秀雄の「故郷を失った文学」という視角も想起された。そこから連想すればレヴィナスの「教説」は「故郷を失った哲学」とも読めるのではないか?また戦後を生き延び、その負い目を自裁した三島由紀夫や自らの死で左翼への異議申し立てをした野村何某など彼らの生き様も想起される。それを通し保田與重郎の生き様と言説はレヴィナスの著作を通してアカショウビンの中で木霊し共振する。保田の言説は戦後に何の負い目もないようにも見える。しかし果たしてそうか?レヴィナスや保田の全体像はアカショウビンには未だ明らかではないが、そういった観点から読む興味もあるのである。

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コメント

私は『レイテ戦記』において大岡昇平が、冷徹かつ広汎に戦場の記録を書き残してくれた偉業こそ、死者へのかけがえのない鎮魂と思います。この最大の犠牲を強いた戦場の記録こそ、日本の映画界が映画化してほしいものです。

投稿: スタボロ | 2006年12月26日 (火) 午前 03時07分

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