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2006年12月 3日 (日)

観想しつつ黙想する日々

 きのうもきょうも無給労働のお仕事。きのうは業界関係者の葬儀とスーパーのイベント取材。本日は三多摩のバザーの取材だ。いい加減にしてもらいたい。若いやつは一部を除き休日出勤はしない。しかし我々中高年はどうだ。黙々とお仕事。まぁ、役得がなくもないが経営者達はサービス残業とかホザいている。このやりたい放題にヤマトの国の中高年は何ゆえ声をあげないのだ。

 金で金縛りになり、声をあげる前に楽になれると首を括り、あるいはフラフラと電車に飛び込むのか。

 こんな日本に誰がした、とは我らが時代のフォークシンガー岡林信康が「ガイコツの歌」の前振りで吐露した一言ではなかったか。ここで今一度、この歌を放歌高吟したくもなる。

 歌詞(注)を参照していただきたい。1968年11月3日に録音されたこの作品は今こそ古びることなく痛快な響きで聴こえてくるではないか。それにしても歴史は繰り返されるとでもいうのであろうか?しかし時代は変化する。かつての条件は今の条件ではない。だが、この国は、どこへ行こうとするのか?自殺者は絶えることはないのか?しかし子供達の自殺の哀れさには耐えられない。

 我が身も、そのクチにならぬよう心しているつもりだが、無意識の衝動性を制御できるほどアカショウビンは理性と融和的でもない。欲動と逃避のバランスはいつ瞬間的に崩れるか。意識は暴発することもあろう。まぁ、刺し違えるなら欲ボケ経営者だろうが未だ確信犯になる覚悟が出来ているとも申せない。

 かように平成18年も師走に入った。坊さんたちは葬儀の掛け持ちで走り回る。昨日の葬儀は浄土宗式。風格のかけらもないお経に故人も苦笑していただろう。スーパーのイベントには幸せを絵に描いたような家族連れ。だだっ広い空間を老婆老翁と子供夫婦と孫達が幸せにかしましく遊弋する。

 いずれにしろ、日出ずる国の現在は死に行く者達の歯軋りと跳躍が残された家族の幸せと恨みの声を担保にし不可思議な不協和音を奏でている。叫びと囁きを聞き分ける耳をもつのは人か獣か、鳥類か、はたまた昆虫たちか?

 ジャズと西洋古典音楽を、この世に棲む日々の安らぎとするアカショウビンに聴こえぬ怨嗟と叫びと囁きはあまりに多い。かくなるうえは観想しつつ黙想するしか手はないか?

(注)

 がいこつがケラケラ笑ってこう言ったと

 どうせ てめぇらみんなくたばって

 オイラみたいになっちまうのによ

 だれがえらいもあるもんか

 どうしてそんなにでっかいつらをやりたがるのか

 聞かせておくれよ

 え年さらしてプロレスごっこの(政治家先生)

 損も得もあるもんけ

 どうしてそんなにエゲツなくもうけたがるのか

 聞かせておくれよ

 ヨダレたらして戦争まってる(資本家先生)

 だれがまじめもあらへんにゃ

 どうしてそんなにまじめな顔して

 人間やめて機械になってる

 ゲップに追われてヨタヨタ歩きの(労働者の皆さん)

 がいこつがまじめな顔してこう言った

 どうせみんなみんなくたばって

 おいらみたいになっちまうんだから

 せめて命のあるあいだ

 つまらぬことにウロウロしないで

 大事に大事に使っておくれよ

 一度しかない(オマハンの命)

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