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2006年12月 4日 (月)

陳腐と悲哀と怒りの不協和音

 中高年の抱える重荷、とでもいうべきものが2日の毎日新聞の夕刊に掲載されている。

 40代派遣男性社員の自殺の記事だ。大手メーカーの下請け会社をリストラされた彼は派遣社員として工場を転々とし、その間に離婚。一人で公営住宅に住み、月給が20万円を切るようになっても妻子が住むマンションのローンを月11万円払っていたという。「家族には住まいを残したかったようだ」と彼の兄は話したそうだ。

 死に至る経緯も書かれているが、そのような例は、この国のあちらこちらの日常の裏や表で恒常化しているのではないか。アカショウビンの働く職場では30代後半の後輩の多重債務が発覚し先ごろはその処理に追われた。

 独身の後輩はともかく、自殺した男が抱えて背負いきれなかったものは「家族」への責任であろう。世間的には「人の好い」普通のサラリーマンは、多くがかように、この世を凌いでいる。アカショウビンなどは、まだ気楽なものである。

 話は飛ぶ。その日の夕刊には噺家の立川談志の記事も出ている。〝談志の「遺言」〟という聞き書きの記事である。ガンにも罹っている筈の談志は70歳になり「いつ死んでもおかしくないから」と語ったそうである。前にも書いたようにアカショウビンは談志が嫌いである。この記事を読んでも、またほざいてやがるな、という印象しかもてない。しかし談志という「噺家」ではない「人間」の言葉はかつてちゃんと聴いた。テレビで手塚治虫について語っていた時にである。噺家ではなく一人の手塚ファンとして談志の語りには聴くべきものがあった。噺家としてはつまらなくても、それは付け加えておこう。

 それはともかく。男だけではなかろうが、多くの女性に比べて特に我々中高年の男という生き物の抱える重圧は、この平和日本で、実に陳腐と悲哀と怒りの不協和音として耳にするだけでなく目にもするわけである。

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