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2006年12月31日 (日)

モーツァルト・イヤー

 大晦日のNHK教育テレビはモーツァルト尽くし。紅白や他のチャンネルを回し観てもここへ戻る。モーツァルトではないが内田光子とムーティのベートーヴェン第3協奏曲も楽しめた。

 アカショウビンが若い頃に12月はFM放送でバイロイトのワーグナー特集を聴くのが楽しみだった。最近はもっぱらDVDとCDだ。ワーグナーの音楽とは何か?それを探ることは西洋音楽の全体像をつかむ上で不可欠である。モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、マーラー、ブルックナーと聴いて、その中に屹立するワーグナーとは?フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュといった大指揮者が音楽生命を賭けて演奏したリヒャルト・ワーグナーとは何者か?

 そう問うことは西洋音楽とは何か、と問うこととも関連する。まぁ、音楽なんて楽しめばいいではないの、そんなにしち面倒臭く考える必要はないでないの?という声も聴こえる。しかしアカショウビンも西洋音楽から多くの恩恵を受けた一人である。その中でアカショウビンは、「西洋」と「音楽」は「何か」という問いへ誘われる者なのである。そこではワーグナーを介しモーツァルトが大きな意味を持って迫る。この「天才」とは何か?と併せて問いたくなるのだ。

 まぁ、それはアカショウビンの人生のなかで生涯問い続ける、答えを出すのがもったいない(笑)問いでもある。ともかく、こうしてモーツァルトを聴きながら年を越す幸せに感謝しよう。何とかアカショウビンも2006年を生き延びた。その幸いを2007年に何か結実させるようにしたいものだ。

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2006年12月27日 (水)

戦の意志

 先のブログで12月8日の日刊紙3紙を読み比べたことを書いた。そのとき産経新聞の「正論」の切抜きがどこかへいっていたのが見つかった。執筆者は新保祐司という文芸評論家・都留文科大学教授という肩書きの人だ。

 氏は9・11が起きた数年前の正月休み前にハワイへ行かれたと言う。別に行きたくもなかったそうだが、そこで山本七平の「小林秀雄の流儀」が文庫化されるにあたり解説を依頼されていたのでプールサイドでその本を読んで過ごしていた。せっかく来たハワイなのだから真珠湾へも行った、という。そのような私的な話から三島由紀夫の「豊饒の海」、ツヴァイクの「歴史の決定的瞬間」などを引き合いに出す。アカショウビンが触発されるのは、氏が山本七平氏の小林論を読みながら思い出したという小林秀雄の「戦争と平和」という文章だ。それはアカショウビンもかつて読んでいる。小林は昭和17年3月の元旦の「帝国海軍真珠湾爆撃の写真」が載っている新聞の写真を眺め考えたことを「戦争と平和」というタイトルで「文学界」3月号に書いた。

 新保氏の引用されている箇所の前半は割愛して、その後の小林の文章は次の通りである。

 「心ないカメラの眼が見たところは、生死を超えた人間たちの見たところと大変よく似てゐるのではあるまいか。何故なら、戦の意志が、あらゆる無用な思想を殺しさつてゐるからだ」。

 こういう言説は保田與重郎の思想というか覚悟と近似している。というよりも同根の心の昂揚と覚悟だろう。それは戦後に保田や小林が批判された「思想」の典型的な例として何度も思想家、文学者や哲学者、評論家、詩人の論説のなかで繰り返し引用され論評されている。それは「左翼」から「右翼」的言辞として切って捨てられた批評文でもあろう。

 それに対するアカショウビンの疑問や同感や違和や共感は、このブログの通奏低音でもある。

 「正論」の新保氏の論説の結語はこうである。

 「戦の意志」を喪失した戦後の日本人が今日、真珠湾攻撃を振り返るとき、「あらゆる無用な思想」を語るであろう。しかし、大事なのは、まずそれを「歴史の決定的瞬間」と深く感受して、重く沈黙することである。

  この結論はナカナカかっこ良い。しかし「戦の意志」を喪失した日本「国民」を新保氏は情けない「国民」としてダメだと言うのであろうか?「正論」に書く論説であることを意識しての主張でもあるだろう。しかし、この小林の「戦の意志」という言葉に込めた意味と新保氏が引用する「戦の意志」とは異なるのではないか?それは考察してみたい挑発を感じるのでいずれ試みてみる。

 ところで「硫黄島からの手紙」は27日の毎日新聞の夕刊で中西 寛氏が「硫黄島に学ぶ日米関係」というタイトルで書いておられる。曰く、米国でも、と中西氏は書いておられるが、日本でもそうなのか知らないけれども「硫黄島からの手紙」は前作より好評で公開が二カ月も早められたという。

 中西氏はイーストウッドが「父親たちの星条旗」を撮っているときに栗林中将に興味を抱き、もう一作撮ることにした、という監督にインタビューした村井真郎という人の「諸君!」に載った記事から引用し監督が「いままでのハリウッド映画のような描き方をするつもりはない」と明言した、ということも伝えている。

 話がアレコレ飛びすぎた。夜も遅い。明日で会社は一応、仕事おさめ。だが仕事は残っている。サラリーマンは気楽な稼業でもないのだ。小林秀雄の昭和17年前後の文章は保田與重郎のものと併せ読むと何か「発見」もありそうだ。年末・年始に更に読み直していこう。多分やらないだろう大掃除をしながら。

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2006年12月21日 (木)

死に果てた者たちへの負い目

 E・レヴィナスの著作を読んでいると、それは哲学というより「教説」というように読める。独特の術語を日本語に置き換える無理もそこにあるだろう。しかしその思索は仏教的な「悟り」にも似た境地が色濃く漂う長広舌のように響く。

 レヴィナスは先の大戦でナチスに殺戮されたユダヤ人の生き残りである。戦後はフランスで哲学教師として天寿を全うした。ドイツではハイデガーの講義も聴きフッサール以来のドイツ現象学の衣鉢を継いだ著作はフランス語で残されている。その戦後の思索はユダヤ教・ユダヤ文化やフッサール、ハイデガーに導かれたソクラテス以前のギリシャ哲学への射程も有する。その言説の底に読み取れる呻き声とも聴ける響きは虐殺された同胞たちへの負い目である。

 人は自らが死ぬべき生き物であることを覚悟し心情を文字に残す。哲学者や作家であるを問わず、戦争や病で市井の死にゆく者達が生き残る者たちへ何事かを託す。殺戮されたユダヤ人たちもそうであったろう。

 「硫黄島からの手紙」の冒頭とラストシーンは、地中から出現した死者たちの手紙である。監督には死を覚悟した者たちのメッセージへの共感と驚愕が作品のモチーフになっていると思われる。彼らの痛切な思いが家族や友人、知人たちに託される。そこには恐らく人間感情の根底的なものが網羅されている。その事実にC・イーストウッド監督は共感した筈だ。映画手法としては特に斬新というわけでもない。しかし台詞を日本語で統一したのは監督にとっても不安だったに違いない。それを克服したのは主演の渡辺 謙はじめ日本人スタッフの健闘と監督との信頼関係とでもいうべきものだろう。その度量と手法を用いた監督の力量のよってきたる知性を賛嘆しよう。先のブログでの不満は微かなキズと見過ごすことができなくもない。しかし作品の完成度はそこで殺がれるとアカショウビンは思ったのだ。それは日本人スタッフと米国スタッフの溝とも読めよう。

 しかしながらC・イーストウッドという監督の真骨頂は「死への眼差し」を深く湛えているところだ。それは前作の「ミリオン・ダラー・ベイビー」でも了知した。死を覚悟する生き物としてのヒトへの好奇心と敬意がそこにはある。76歳という年齢を経てこそ成し得た仕事ともいえる。わが邦では黒木和雄がその境地を作品に残した。

 ところでレヴィナスである。カント以降の近代西洋哲学の渦中でハイデガーを介し、それを超克すべく繰り広げられる「哲学」は難解だが興味深い。アカショウビンは小林秀雄の「故郷を失った文学」という視角も想起された。そこから連想すればレヴィナスの「教説」は「故郷を失った哲学」とも読めるのではないか?また戦後を生き延び、その負い目を自裁した三島由紀夫や自らの死で左翼への異議申し立てをした野村何某など彼らの生き様も想起される。それを通し保田與重郎の生き様と言説はレヴィナスの著作を通してアカショウビンの中で木霊し共振する。保田の言説は戦後に何の負い目もないようにも見える。しかし果たしてそうか?レヴィナスや保田の全体像はアカショウビンには未だ明らかではないが、そういった観点から読む興味もあるのである。

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2006年12月17日 (日)

「硫黄島からの手紙」

 昨日、先の大戦の激戦地である硫黄島の戦いを日本軍側から描いたC・イーストウッドの新作「硫黄島からの手紙」を観てきた。先に公開され米国側から描いた「父親たちの星条旗」に続く作品である。それにしても、両作品を観て、どう論評すればよいか迷うというのが正直なところだ。何故、監督は、今頃、あの戦争を描く作品を撮ったのか。意図がわからない。齢76歳になり「歴史」に突然向き合おうと思ったのか?それとも他に意図があるのか?

 先に公開された「父親たちの星条旗」で述べたアカショウビンの先のブログの印象は本作で払拭されたわけでもない。来日時のインタビューに対するコメントは「戦争にヒーローはいない」と言うものだがマスコミ対応用のものと邪推される可能性もあるのではないか?

 なぜなら本作で描かれる栗林中将を監督は「ヒーロー」として捉えているのではないか?それは映画作品として商業主義の仕方なさと見なすことは可能だ。恐らくC・イーストウッドは渡辺 謙という俳優に惚れたのだと思う。「ラスト・サムライ」、「サユリ」と出演した米国映画を監督は見ていると思われる。この作品の中での渡辺 謙も実に考え抜かれた演技をして立派である。その演技と演出は素直に評価しよう。また日本人として面映くも感じる。

 しかし「作品」の仕上がりとして果たしてこれまでの戦争映画とどれほどの差異があるのか。キャメラのくすんだ色調も悪くない。だが憲兵達が日章旗を掲げていない家屋を尋問するエピソードの日本家屋は「サユリ」に多くの人が感じた違和感の域と同じようにアカショウビンも感じた。「サユリ」が某小説家の言う如く「国辱映画」とアカショウビンは思わない。しかし作品の統一性としてそういう未消化とも言えるエピソードを挿入する必然性に疑問も持った。

 本作に対する批評の幾つかを読んだが、その中に「米国人から本当の日本人が初めて描かれた」という批評があった。しかし、果たしてそうか?と問わなければなるまい。

 事は国民や生活民のメンタリティと関わってくる。友人のN村君は戦争を扱った邦画に欧米の作品の「レベル」がないのは何故か、という疑問も呈した。アカショウビンは内外の戦争映画をそれほど観ているわけではない。しかし、これまで観たなかでフレッド・ジンネマンの「ジュリア」やS・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」の秀作を観ればN村君の慨嘆がわからなくもない。

 それはともかく「硫黄島からの手紙」という作品に満腔の賛意を表することが出来なかった理由は更に明確化しよう。少し時間はかかりそうだが。

 

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2006年12月15日 (金)

討ち入りの日

 昨日は仕事で新潟県新発田市へ。新潟まで新幹線。駅レンタカーを駆って7号線をひた走る。ご存知であろうか新発田市は赤穂47士の一人堀部安兵衛の出身地である。討ち入りの日は地元で「義士祭」をやっているという。場所は安兵衛手植えの松と中山家の墓があるという長徳寺。他の46士の地元で同じような催しが行われているかは不明。されど仕事の縁というのはありがたいもの。

 お寺では、懐かしや小学生のころNHKの大河ドラマ「赤穂浪士」で初めて見た義士の装束を着た地元有志の皆さんが蕎麦と甘酒をふるまってくれている。クライアントのお薦めでアカショウビンも蕎麦を戴き甘酒(清酒だったような気もするが)も一杯。寺内では少年・少女剣士の黄色い声が。

 毎年、この日は雨か霙という。されど昨日は曇っていたが霙も雨もなし。何でも来年の番組で安兵衛を主役にした番組を放映するというNHKと思しきスタッフも取材に。あるいは自衛隊の軍楽隊も。いやいや実に賑やかである。

 アカショウビンが蕎麦と甘酒をおいしく頂いていると向かいの初老の紳士が「中山家の墓はご存知ですか」と話しかけてくる。「いえいえい私はこちらへは初めてなのです」と答えると「それではご案内しましょうか」と。「それは是非」とお墓へ。墓には清楚な花も活けられお線香も。これも何かの縁と手を合わせ写真も撮る。

 その墓は堀部安兵衛の父親の墓という。安兵衛のお骨は泉岳寺。分骨もされていないようだ。

 長徳寺には小一時間くらいいて次の営業へ。

 朝5時起きの日帰り営業は疲れも少し。帰りの新幹線はぐっすり眠った。仕事の縁とはいえありがたい役得であった。

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2006年12月13日 (水)

未明のコルトー

 未明に、買い込んだままで聴いていないCDを引っ張り出して聴く。ここ数年のアカショウビンの習慣である。先日はワルターのモーツァルトに全身を耳にした。今朝はコルトーのシューマン。

 1929年3月9日・19日の録音である。その日付を見れば購入するのも聴くのも躊躇するだろう。しかし3枚組の廉価CDなので買っておいた。いずれ暇な時に、と一度聴いて以来久しぶりに聴いた。コルトーというピアニストの何かがわかったような気がした。「交響的練習曲」と「子供の情景」、「クライスレリアーナ」と聴いて飽きない。「子供の情景」で有名な「トロイメライ」も情に流されず、そっけなくコルトーは弾く。巷間流布する華奢なショパン弾きという印象にだまされてはいけない。実に骨太なピアニストである。

 石牟礼道子さんが、ある講演で「この世はもっと奥深い、神秘な呼びかけに満ちていたんですね。それをj聞き分ける耳、それを見るまなこは、昔のほうが深かったと思うんです」と語っていた。

  コルトーの演奏を聴いていると、その「神秘なよびかけ」を聴く思いがした。昭和4年の録音でも音楽は平成18年の未来にちゃんと届く。人類のこの技術に感謝しよう。それが幻聴であるとしても。

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2006年12月 9日 (土)

新聞3紙の比較

 珍しく昨日は朝刊3紙を比較しようと思い立った。宅配してもらっている「毎日」の他に駅売りで「朝日と「産経」を買った。それなりに特徴があるのを確認した。

 「毎日」はC・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」について鳥越俊太郎氏と毎日新聞論説委員の布施広氏の「トークショー」。産経は今、手元にないが小林秀雄を引用した論説があった。また同紙には「三島由紀夫が愛した百合の花」という大阪特派員の皿木 喜久氏のコラムもある。朝日は「熱狂 そして孤立」という見出しで1938年10月7日午前10時過ぎに伊勢神宮外宮に最寄りの駅(現・JR伊勢市駅)にナチスの青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」が降り立った写真と記事を掲載している。

 なるほど3紙の違いがある。

 会社で若い後輩たちに「きょうは何の日?」と訊ねた。27歳の女性は即座に「ジョン・レノンの命日」と答えた。38歳の男は「わかりません」と口ごもった。まぁ、それが現在の日本の平均的な日常なのだ。

 その日の3紙は熟読しよう。きょうも無給労働で出社しなければならない。哀れ零細家内企業に飼い殺されかねない薄給サラリーマンのアカショウビンである。君死に給うなかれ、と我が身に叫びたくもなる(笑)。

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2006年12月 5日 (火)

28年前

 昨夜、NHKデレビがキャンディーズを取り上げていた。恥ずかしながら最後まで見させられてしまった。うーん、懐かしい!学生時代の友人達との間でも彼女達はよく話題にのぼった。おれはランちゃん、いやスーちゃん、何を!それはミキちゃんだろうが!とアホ学生たちは暇をもて余すなかで他愛もない話をしたものだ。

 番組はキャンディーズ尽くしのてんこ盛りである。それほどのファンではなかったアカショウビンだがヒット曲を聴きながら当時を追懐した。

 そのころ話題になった社会現象としては長嶋引退のほうが切なかった。人並みの長嶋ファンであるアカショウビンは柄にもなく長嶋茂雄賛歌の詩を書いた。恥ずかしいが事実である(笑)。今思い出せば年甲斐もなく照れてしまう。アンタ単なる馬鹿だったのじゃないの、という蔑みの声も聴こえてくるが(笑)。 まぁ、いいじゃないの。人間という生き物は他愛もないことで熱くなるものではないか。

 そのような当時に自分はどう生きていたのか。日記を引っ張り出した。解散コンサートがあったという昭和53年4月4日のものは見つからなかったが、その年の夏以降のものは出てきた。

 映画フリークで文学少年・青年だったアカショウビンはアルバイトをしながら将棋に入れ込み、新宿の道場通いが楽しみであった。大学で学ぶというより映画館と将棋道場が学校のようなものだった。

 その夏に母方の祖父が死んだ。アカショウビンは葬式に出たかったが無理して帰省することもない、という電話の父親の話に従いアルバイトで食いつないでいた。アカショウビンを可愛がってくれた祖母の葬儀にも行けず、父の臨終にも間に合わず、つくづくアカショウビンは不幸者である。明治生まれで巡査から印刷業に転じた祖父は達筆で大正天皇から褒美も戴いたという母の自慢の父親だった。アカショウビンが子供のころは、戦争中、母が娘のころ船で移動中にグラマンの攻撃を受け、周りで死者も出た中で祖父が母を庇い九死に一生を得た話をよく聞かされた。

 祖父が亡くなった日の2日後は広島に原爆が落とされた日である。「三十三年前のきょう、日本の一地方都市で大量に人が死んだ。今朝、ぼくはアルバイトに行く途中の地下鉄で正体なく居眠っていた」と記している。

 話が逸れた。キャンディーズである。キャンディーズをダシに文化現象論でも書いてもみようか、と思い立ったがアルコールの酔いがまわってきた。近く「キャンディーズ現象とは何だったのか」という問いを発し何事か考察してみることがあるかもしれない。

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2006年12月 4日 (月)

陳腐と悲哀と怒りの不協和音

 中高年の抱える重荷、とでもいうべきものが2日の毎日新聞の夕刊に掲載されている。

 40代派遣男性社員の自殺の記事だ。大手メーカーの下請け会社をリストラされた彼は派遣社員として工場を転々とし、その間に離婚。一人で公営住宅に住み、月給が20万円を切るようになっても妻子が住むマンションのローンを月11万円払っていたという。「家族には住まいを残したかったようだ」と彼の兄は話したそうだ。

 死に至る経緯も書かれているが、そのような例は、この国のあちらこちらの日常の裏や表で恒常化しているのではないか。アカショウビンの働く職場では30代後半の後輩の多重債務が発覚し先ごろはその処理に追われた。

 独身の後輩はともかく、自殺した男が抱えて背負いきれなかったものは「家族」への責任であろう。世間的には「人の好い」普通のサラリーマンは、多くがかように、この世を凌いでいる。アカショウビンなどは、まだ気楽なものである。

 話は飛ぶ。その日の夕刊には噺家の立川談志の記事も出ている。〝談志の「遺言」〟という聞き書きの記事である。ガンにも罹っている筈の談志は70歳になり「いつ死んでもおかしくないから」と語ったそうである。前にも書いたようにアカショウビンは談志が嫌いである。この記事を読んでも、またほざいてやがるな、という印象しかもてない。しかし談志という「噺家」ではない「人間」の言葉はかつてちゃんと聴いた。テレビで手塚治虫について語っていた時にである。噺家ではなく一人の手塚ファンとして談志の語りには聴くべきものがあった。噺家としてはつまらなくても、それは付け加えておこう。

 それはともかく。男だけではなかろうが、多くの女性に比べて特に我々中高年の男という生き物の抱える重圧は、この平和日本で、実に陳腐と悲哀と怒りの不協和音として耳にするだけでなく目にもするわけである。

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2006年12月 3日 (日)

観想しつつ黙想する日々

 きのうもきょうも無給労働のお仕事。きのうは業界関係者の葬儀とスーパーのイベント取材。本日は三多摩のバザーの取材だ。いい加減にしてもらいたい。若いやつは一部を除き休日出勤はしない。しかし我々中高年はどうだ。黙々とお仕事。まぁ、役得がなくもないが経営者達はサービス残業とかホザいている。このやりたい放題にヤマトの国の中高年は何ゆえ声をあげないのだ。

 金で金縛りになり、声をあげる前に楽になれると首を括り、あるいはフラフラと電車に飛び込むのか。

 こんな日本に誰がした、とは我らが時代のフォークシンガー岡林信康が「ガイコツの歌」の前振りで吐露した一言ではなかったか。ここで今一度、この歌を放歌高吟したくもなる。

 歌詞(注)を参照していただきたい。1968年11月3日に録音されたこの作品は今こそ古びることなく痛快な響きで聴こえてくるではないか。それにしても歴史は繰り返されるとでもいうのであろうか?しかし時代は変化する。かつての条件は今の条件ではない。だが、この国は、どこへ行こうとするのか?自殺者は絶えることはないのか?しかし子供達の自殺の哀れさには耐えられない。

 我が身も、そのクチにならぬよう心しているつもりだが、無意識の衝動性を制御できるほどアカショウビンは理性と融和的でもない。欲動と逃避のバランスはいつ瞬間的に崩れるか。意識は暴発することもあろう。まぁ、刺し違えるなら欲ボケ経営者だろうが未だ確信犯になる覚悟が出来ているとも申せない。

 かように平成18年も師走に入った。坊さんたちは葬儀の掛け持ちで走り回る。昨日の葬儀は浄土宗式。風格のかけらもないお経に故人も苦笑していただろう。スーパーのイベントには幸せを絵に描いたような家族連れ。だだっ広い空間を老婆老翁と子供夫婦と孫達が幸せにかしましく遊弋する。

 いずれにしろ、日出ずる国の現在は死に行く者達の歯軋りと跳躍が残された家族の幸せと恨みの声を担保にし不可思議な不協和音を奏でている。叫びと囁きを聞き分ける耳をもつのは人か獣か、鳥類か、はたまた昆虫たちか?

 ジャズと西洋古典音楽を、この世に棲む日々の安らぎとするアカショウビンに聴こえぬ怨嗟と叫びと囁きはあまりに多い。かくなるうえは観想しつつ黙想するしか手はないか?

(注)

 がいこつがケラケラ笑ってこう言ったと

 どうせ てめぇらみんなくたばって

 オイラみたいになっちまうのによ

 だれがえらいもあるもんか

 どうしてそんなにでっかいつらをやりたがるのか

 聞かせておくれよ

 え年さらしてプロレスごっこの(政治家先生)

 損も得もあるもんけ

 どうしてそんなにエゲツなくもうけたがるのか

 聞かせておくれよ

 ヨダレたらして戦争まってる(資本家先生)

 だれがまじめもあらへんにゃ

 どうしてそんなにまじめな顔して

 人間やめて機械になってる

 ゲップに追われてヨタヨタ歩きの(労働者の皆さん)

 がいこつがまじめな顔してこう言った

 どうせみんなみんなくたばって

 おいらみたいになっちまうんだから

 せめて命のあるあいだ

 つまらぬことにウロウロしないで

 大事に大事に使っておくれよ

 一度しかない(オマハンの命)

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