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2006年11月23日 (木)

狂気とは?

 或るブログで、学生さんだろうか若い映画好きの女性がスタンリー・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」」を観て「すっごく、面白かったです!特に前半が」と感想を書いていた。アカショウビンも同感だ。あの作品の「急所」をキューブリックは若い女性にもちゃんと伝わる描き方をしているのである。そこがキューブリックのエライところだ。あの作品をご覧になっていない方に是非お薦めしたい傑作だ。

 かつて米国でヴェトナム戦争を描いた作品が幾つか撮られていた。とても話題になったのは「地獄の黙示録」だったろうか。それは、それなりに面白かった。あの戦争は米国の映画作家にとって格好の主題となりうる「歴史」と現実だろうからである。マイケル・チミノ監督の「ディア・ハンター」も生真面目な作品で好感が持てた作品だった。当時朝日新聞の記者だった本多勝一氏はこき下ろしていたが氏の読者であったアカショウビンは「えー!、そうなんですかぁ?」と疑問と違和感を持ったものだ。

 そして今から20年近く前にもなるだろうか、オリバー・ストーン監督の「プラトーン」が話題になった。あの戦争の生き残りである兵士が過酷な経験に基づいて映像化した作品として世評は実に高かったと記憶している。しかしアカショウビンは駄作と見た。なぜなら「作品」として拵えた映像で自分の「体験」を「表現」する時に、それは「体験」を記憶で辿り構成するだけでは、それは単なる独りよがりになるだけ。それを見させられる観客は白けるしかない。「プラトーン」はアカショウビンにとってそう見なすしかない「つまらない」作品だった。

 そういった鬱々とした気分でヴェトナム「戦争」を描く米国人の映画監督の作品を観ながら、あの「戦争」とは何か?とあれこれ考えていた。そして封切られた「フルメタル・ジャケット」を観終わった時に、これは快心の「傑作」と我が意を得た思いをしたのである。最後のクレジットのバックにローリング・ストーンズの「ペイント・イット・ブラック」が使われた時にアカショウビンは「やったね!」とキューブリックに快哉を送った。そこに急所として見える主題は人間の「狂気」である。

 戦争を描く映画は一筋縄ではいかない。そのことに創作する側は無自覚ではいけない。「名匠」C・イーストウッドも無自覚ではないから新作を撮った筈なのだ。「父親たちの星条旗」を観た後で、あれこれ考えていると、あの作品に不満だった理由は監督の悪い意味での「ヒューマニステック」な描き方にあるのではないかと思い至るのである。「人種差別」を「エピソード」の一つに持ってきても、「知的な」観客の共感と興味は掻き立てても「戦争」の全容は描きえない。だから聡明な監督は2作撮って観客それぞれに問いを任せたのであると推察する。

 「戦争」は言うまでもなく多面的な「現実」である。前線にいない兵隊達にはノンビリした日常というのも実際だったろう。しかし過酷な「戦闘」では「地獄」が現出する。それは体験した人でなければ伝えられない「現実」であろう。そのもっとも苛烈な映像は原一男の「ゆきゆきて、神軍」(1987年)である。「ヤマザキ!天皇を撃て!」の著者である「地獄」の戦争を体験した奥崎謙三氏の日常と「狂気」を追う映像は観る者を瞠目させる。

 アカショウビンが中学生の頃から高校、大学と経る年頃にヴェトナム戦争は先頃のイラク戦争と同じく海の彼方の戦争だった。しかしイラク戦争に対する「日本国民」の対応の仕方はヴェトナム戦争とは唖然とするほどの温度差があった。それは何か?それについて先の書き込みでM尾君が違和感を伝えたチョムスキーを含めて幾多の論客達が「解答」しているだろうが、それで始末がついたわけではなかろう。

 或る「事件」に対する「温度差」は日常的なものだ。近く三島由紀夫「事件」の11月25日が今年も経巡って来る。あの「事件」についてもアカショウビンを含めて、渡辺京二氏の術語を使えば、幾多の「生活民」や評論家、作家、知識人たちの「衝撃」が、あちらこちらのブログに記載されるはずだ。それは先にアカショウビンの文言に対してコメントされたI上君の感想も含めて千差万別であろう。マスコミや「歴史家」は、それを集約し「公的」なものに「まとめ」ようとする。その濃淡は「差異」として論じる思想的・哲学的論点ともなるだろう。

 話が錯綜してきた。アルコールも少し体内に満ちてきた(笑)。話にオチをつけ「勤労感謝」の日にも関わらず薄給サラリーマンは休日も無給仕事にも出かけなければならない(笑)。

 先日のブログに書いたように、ミシェル・フーコーの「狂気」に関する論説は難解だが興味深い。それは映画監督のスタンリー・キューブリックの作品に描かれる「映像」としての「狂気」を観ればフーコーの言説は難解ながら、フランスやドイツで歴史的な過程を経て視とおされる哲学的・思想的射程として興味を掻き立てられるのである。映像ではなく言説としてデカルトを介し「狂気」を論ずるジャック・デリダとミシェル・フーコーの応酬(「フーコー・コレクション3 言説・表象」ちくま学芸文庫 2006年7月10日 所収「私の身体、この紙、この炉」p391~p444)は難解ながら面白い。これを精読した後で感想を書き込もう。

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