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2006年11月12日 (日)

M・フーコーの思考

 ミシェル・フーコーが1984年6月25日に亡くなる前月の29日、「ドゥルーズに近い」若い哲学者アンドレ・スカラのインタビューを受け、消耗している状態で語った話は興味深い。スカラに彼は「ハイデガーの読解がもつ重要性を語った」(「フーコー・ガイドブック」ちくま学芸文庫2006年11月10日p325)という。そのコメントにアカショウビンは注目する。恐らくフーコーにとってハイデガーは超えるべき西洋哲学の同時代人であり目標だったと思える。

 ハイデガーが主張する、西洋近代哲学が忘却した「存在の歴史」と、フーコーが「狂気」を通じて更に問い直した「西洋の歴史」は現代西洋哲学のなかで深く呼応している。

 アカショウビンは、かつてフーコーの浩瀚な「言葉と物」を読み終えた時にフーコーの語る話がまるで理解できなかった。何でこの人はこんな回りくどい言説を延々と述べるのだろう、と。読み終わっても不可解さの原因を追究する根気に欠けた。それからしばらくしてフランスでハイデガーとナチの関係が再燃し哲学界で論議された。それからアカショウビンは、かつて読んだ「存在と時間」を新たに読み直し、他著作の読解にも取り組んでいる。そしてハイデガーとフーコーの思索に呼応する「西洋」という歴史と哲学史に新たな関心を掻き立てられたのである。

 フーコー哲学の出発点は「狂気」を通じた思索である。それとハイデガーの「存在の忘却」は呼応していると思われる。「ヒューマニズム」に関して両者の思索はもっと近くなる。

 フーコーが言う、人間という存在が海辺の砂のように忘れ去られていく、それは「宇宙史」とでも言うしかない視線から語る言説は、ハイデガーが強調した、巷間流布している「ヒューマニズム」という概念を否定する言説として「現在」も改めて思考しなければならない急所であろう。アカショウビンが生きている時間の中で、「人間中心的」でない、そのような言説はとても魅力的で刺激的なのである。この国でもアジアでも、この惑星内での行き来は実に容易になっている。東西が行き交う中で西洋とは異郷の地でも新たな視角と視線が生じているのを実感もする。

 アカショウビンも、この国の江戸から幕末・明治・大正・昭和の思想史を辿りながらフーコーやハイデガーという西洋人の思索と呼応していこう。

 友人のI上君は田中正造の生涯を辿りながら、この国の現在を眺め直しているようだ。アカショウビンも、この惑星の行く末に思いを致し、ヒトとしての存在の「現在」を苦しみながらも楽しみ味わっていこうと思うのである。

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