« M・フーコーの思考 | トップページ | C・イーストウッド再論 »

2006年11月14日 (火)

崇高とは何か?

 明け方、先日購入したブルーノ・ワルターが1954年12月3日にコロンビア・シンフォニー・オーケストラと録音したモーツァルトの交響曲を聴いた。後期の作品ほど有名ではないが28番(ハ長調・K200)の2楽章アンダンテはモーツァルトという音楽家の中にある筆舌に尽くしがたい崇高さというしかない、それは高みというのか超越というのか、そういうものを感じとる音楽である。

 先日聴いたK526のイ長調のヴァイオリンソナタのやはりアンダンテはモーツァルトという男が抱え込んでいた寂寥感というか無常観が心に沁みてくる音楽だった。それはモーツァルトが覗き込んでいた深淵とでもいうものが音になったと思わずにいられない音楽だ。しかし、この28番の交響曲のアンダンテは「崇高」と喩えるしかない静謐を楽章全体に漲らせている。モーツァルトの幾つかのアンダンテに聴こえる至高の音楽が確かに存在する。

 それはブルックナーの交響曲に通底するカソリック的「崇高さ」とも異なる。あえて言えば宗教的な臭みを超越しているとしか言えない崇高さというものではないか?

  またK526のソナタのアンダンテを評したアルフレート・アインシュタインの「あたかもすべての善人に生存の苦い甘みを味わわせようと、父なる神が世界の一瞬間だけいっさいの運動を停止させたかのような、魂と芸術の均衡が達成されている」境地とも異なる。それはワルターというモーツァルトを生涯賭けて愛し、演奏し続け、追求した指揮者にしか表現できない境地から紡ぎ出された演奏によるとも言えるかもしれない。しかし、そこに厳然とあるのはモーツァルトという人間の中に生成した音楽の高みの奇跡と言うしかない。

|

« M・フーコーの思考 | トップページ | C・イーストウッド再論 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/12679039

この記事へのトラックバック一覧です: 崇高とは何か?:

« M・フーコーの思考 | トップページ | C・イーストウッド再論 »