« 追悼、アニタ・オデイ、フィリップ・ノワレ | トップページ | 観想しつつ黙想する日々 »

2006年11月29日 (水)

快楽としてのジャズ

 アニタ・オデイの旧盤をあれこれ聴きながら、ここのところあれこれジャズのCDを棚から引っ張り出し楽しんでいる。アカショウビンは彼女のようにヘロインはやらないが充分にアルコール依存症である。昨年、病を患ってから同病の先輩のアドバイスで煙草は自然に止めたがアルコールは別。以来、昔ほどに飲み歩くこともなくなり酒量も減った。しかし死ぬまでに心残りのないよう我が五体にアルコールは詰め込んで冥土に旅立ちたいと願うのである。そして聴き残しているCDも心残りのないように聴き尽くしてから。無理だろうけど。

 昨日はアカショウビンの崇拝するジャズメン中のジャズジャイアント、デューク・エリントンのアルバムを購入し楽しんでいる。オーケストラでなくピアニストとしてのエリントンが入っているやつである。クラシックの巨匠たちとはまったく違う音楽としてエリントンという存在はアカショウビンにとっては偉大な「ピアニスト」なのである。

 アカショウビンがジャズに目覚めた学生の頃は往年のジャズ喫茶が残っておりCDもなくレコードで楽しんだ。まぁ、人並みにマイルスやコルトレーンなど先輩達がリアルタイムで没頭したという「名人」たちから聴いていったのだが、仲間の話題はもっぱらハードバップからフリー・ジャズでビッグバンドが話題にのることは殆どなかった。或る意味で、そういうジャズは一段低くみられていた。しかし歳を経てジャズと付き合っているうちに様々なプレイヤー達を聴いている中でデューク・エリントンという巨匠はオーケストラ指揮者としてでなく強烈なピアニストとしての存在だった。

 もとよりジャズという音楽は西洋古典音楽の信奉者たちからすれば世俗的な新興音楽として低く見られていた。しかし世俗の快楽に浸る没我の楽しみが軽蔑される所以はない。名人達のセッションはクラシックの名人たちの協奏と何等変わることのない音の快楽と崇高ささえ帯びるのである。林 達夫のひそみに倣うエピキュリアンを自称するアカショウビンとしては、この世に棲む間は快楽のすべてを味わい尽くしたいとも思うのである。これも無理だろうけど。

 毎度、話は飛ぶが、夕刊紙で五木寛之氏が「死は前よりはきたらず」というお題で語っている話は興味深い。かつて忌み嫌われていた「死」がそうでなくなったのは源信、法然、親鸞といった浄土教の仏者たちが登場してきたからだ、というご指摘は面白い。アカショウビンは、それに日蓮や道元も加えたいところだ。日本仏教の中で浄土三部経と共に、というよりそれ以上に法華経は仏教の聖典として尊崇されてきた。座禅一筋の道元さえ病を得て示寂するまでは法華経の神力品で病から逃れようと書写していたという。

 最近の世相を観ていると日本人はかつての貧窮から金満になったことで「死」をその日常の中から「疎外」しているのではないか。五木氏の主張される始祖たち以前の心相へと逆戻りしてしまったように見える。人は病を得たり不幸に見舞われたことで初めて「死」と正面するのではないか。

 アカショウビンのように厭世家で快楽主義者といった始末に悪い輩には、「死」をもっと違う視点から自らの中に取り込んでみたい欲求にかられるのである。

 まぁ、年末に向けてジャズや西洋古典音楽の快楽に浸りながら鎌倉仏教の始祖たちのテクストも読み込んで歳を越していきたいと思う。

|

« 追悼、アニタ・オデイ、フィリップ・ノワレ | トップページ | 観想しつつ黙想する日々 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/12874662

この記事へのトラックバック一覧です: 快楽としてのジャズ:

« 追悼、アニタ・オデイ、フィリップ・ノワレ | トップページ | 観想しつつ黙想する日々 »